 |
高蔵寺からJRに入る。中央本線で信州に向かう旅路も、結構久し振りだ。高2の夏以来だから、3年ぶりという事になるが、それほど懐かしいという感はない。むしろ、これで何度目だろうという感の方が強いくらいだ。
中央本線は、木曽川に沿った谷を、川の流れに極めて忠実に辿っている。
木曽川は、河口部では非常に緩やかな流れとなって、長良川・揖斐川と共に有名な『輪中地域』を作っているが、ここらまで来ると、全く別の川かと思うほど、その様相は異なる。ゴツゴツした岩が川瀬にごろつき、深い緑の水を湛えた淵は見る者を吸い込んでしまうかのようである。 |
|
 |
特急しなのに乗ると、見える景観についての解説があるのだが、普通列車ではそんな解説はない。旅者からしてみれば、特急贔屓だが、毎日乗る地元の人からしてみれば、もう聞き飽きた、という事になるので行わないものと思われる。確かに、妥当な事であろう。
ここで、岐阜県の可児から来られたというおかーさん2人と仲良くなる。可児は、日本ライン下りでも有名な土地である。
計画もご自分たちで立てたというお二人は、中央本線・大糸線経由で今夜は富山の宇奈月温泉に一夜泊まり、明日は高山本線で帰るとの事。鉄道ファン顔負けの立派な計画を立案したおかーさんは、何十年もの時刻表愛読者。使用している切符も勿論青春18きっぷと、まさに、僕と同じいコンセプトだ。 |
|
 |
話は盛り上がり、途中、奈良井駅からは、台湾から来られたという、非常に日本語に堪能な方も加わって、楽しい時間を過ごさせて頂いた。ホント、旅をしていて何が楽しいって、こうして見ず知らずの、いろんな所から来た人たちと、いながらにして話ができる、これは非常に大きい。
松本でおかーさんたちとは別れ、僕は篠ノ井線で長野を目指す。
松本駅で左の写真の『月見五目めし』を買ったが、炊き込みご飯が美味い。また、特筆すべきは山菜の煮かただ。今までこんなに美味い山菜料理は食べた事がないと言っても過言ではないくらい、この味は非常に美味かった。さすが、美味い駅弁ランキング49位だけのことはある。 |
|
 |
篠ノ井線は、中央本線と信越本線に挟まれた、あまり存在感の無い線であるが、途中、僕がJRの車窓ベスト10にも数えている借景がある。それが、スイッチバックでも有名な駅、姨捨だ。
この駅は、標高が高い所にあるだけでなく、山の中腹、つまり峠に設けられているので、非常に眺望が開けている。長野盆地が一望でき、その美しさは左の通りだ。特急ならこの駅は通過してしまうのでスイッチバックすら味わう事はできないが、今回は普通列車であるし、対向列車待ちの間にゆっくりと景色を楽しめた。ここを通られる場合は是非、普通列車で通ってもらいたい。夏だけでなく、どの季節にもそれぞれの美しさがあるし、雨が降っても趣深い。今日はどこまでも青い空が善光寺平を包み、高原の夏といった風情が素晴らしい。
さて、ここで、姨捨駅にあった案内板に書かれていた文章を載せておこう。 |
|
 |
『この姨捨駅は全国でもめずらしい、スイッチバック式停車と列車給水の駅として、明治三十三年十一月一日(一九〇〇年)に開通する。
善光寺平の眺望そして鏡台山から上る月がゆるやかに里に続く棚田や、千曲川に映える美しさは、古来よりこの地を田毎の月と呼んでいる。
姨捨公園、長楽寺境内には名月に感動し、更科紀行で詠んだ松尾芭蕉をはじめ、高浜虚子、宗祇法師などの句碑が建てられています。
またこの姨捨駅近くを走る国鉄は、九つの駅を眺望する事が出来特に夜景は素晴らしく、日本三大車窓の一つに数えられています。』 |
|
 |
さて、長野駅では、美味い駅弁ランキング25位の『山菜栗おこわ』を買う。もう一つ、『きじ焼丼』も買ったが、僕としては後者の方が美味かった。
前者は、非常にシンプルで、山菜そのものの味を引き出しており、また、容器も手編みの竹籠と、かなり凝ったものではあるのだが (左の写真参照)、味付けが非常に淡白で、ちょっと頼りない。もう少しアクセントがあってもよい気がした。美味い駅弁ランキング25位だから、あまりエラソーな事は言えないが、そう感じた。
後者も、はじめはそのように感じてはいたのだが、一口喰った時点で、添え付けられていた唐辛子に気が付いた。これは!と思って、上に振りかけると、これが堪らないアクセントとなって、全体の味に大きな引き締まりを与えた。
この唐辛子は、僕は絶対に必要と思う。勿論、辛いのは苦手な方はそのまま食べるしかないだろうが、それでは結構味が物足りない。是非、唐辛子をかけて食べたい。 |
|
 |
因みに、きじ焼丼とは言うものの、実は載っているのは鶏肉。ちょっと見かけ倒しなような気がしないでもないが、美味かったから良しとしよう。
しかし、絶対に許せないのが容器!こんな容器があってよいだろうか?
箱から出して、膝の上に乗せようとするなり、丼とフタがズレ、その拍子に、中身がいくらか床に散乱!本当なら、例えば上にはサクランボも乗っているが、この写真に写っていないのはそういう理由である。
陶器で出来たかなり良い器だけに、非常に口惜しい。もう少し、容器の形状に工夫をしてもらいたいものである。ところで、碓氷峠の夏はこの器をご飯茶碗代わりに使う事にした (未だに使い続けている)。普通の茶碗より大きめなので、大喰らいの僕にはもってこいなのである。 |
|
 |
しなの鉄道線に入り、外は見事に晴れ渡り、非常に気持ちの良い夏の一日といった感じだ。腹も脹れてきたところで目がたるんできて、少し眠る。上田の駅名看板を見たのは覚えているが、その辺りで眠りに入ったのだろうと思う。
しかし!
中軽井沢 (軽井沢の一つ手前) に着く際のアナウンスで起きてみると、何と!外が非常に濃い霧に包まれているではないか!
もはやこれには、驚きを隠せなかった。さっきまであんなに晴れていたのに、この豹変ぶりはどういう事か。
|
|
 |
終点、軽井沢にて降車するも、霧とも雨ともつかない細かな水滴が、凄い勢いで降っている。霧雨、というような生やさしいものではない。最も的確な表現は、『霧雨非常ニ強シ』。
しばらく待てば止むだろうかと、駅前郵便局で旅行貯金をしたり、展示されているEF63型機関車や草軽電鉄のデキ型機関車を見ていたが、一向に止む気配など感じられない。もはや、この雨では日のあるうちに横川に着かないと、遭難する虞すらある。
観念して、バッグから折りたたみ傘を取り出した。まさか、10代最後の旅でこんな雨に降られるとは夢にも思わなかった。
僕は、大切な友人の為に台風の後で荒れ狂う川に飛び込んだメロスのような気分で、碓氷峠へと歩き出し、軽井沢を後にしたのであった。 |
|
 |
アプト時代は単線であったから、ここで上下列車の交換が行われ、その待ち時間を利用して、駅では『峠の力餅』が飛ぶように売れた。SL時代には、機関士がようやく息をつける場所であり、その面影は今も遺っている。
新線になってからは駅も廃止され、変電所があるのみの場所になってしまったが、絶好の写真撮影ポイントとして、その名は忘れられる事などなかった。しかし、その新線も廃止された今となっては、訪れる人も数少ない。変電所も、建物は残っているが稼働しているのかどうかは分からなかった。ただ、国土地理院の地図に依れば、未だに変電所のマークが書かれているので、もしかしたら現役なのかも知れない。しかし、白い変電所の建物には人気は全く感じられず、辺りは草が覆い茂っていた。 |
|
 |
熊ノ平の中ほどに来ると、山手に石碑が建っている。この石碑は、サミットに建っていたものと同じ物で、碓氷峠の鉄道開通記念碑『碓日嶺鉄道碑』である。
同じ物、と言うより、本当はこちらが本家本元で、サミットのは実はレプリカなのだ。鉄道開業当初はこちらの碑が軽井沢の駅前に立っていたが、関東大震災で損傷し (碑の中ほどにある割れ目はその時のものだ)、その際にレプリカを作ってサミットに建て、また本物も修理して熊ノ平に置いたという訳である。横手には口語で熊ノ平駅について紹介してくれている文もあった。左にその写真を掲げる。 |
|
 |
清楚な山間の駅、といった風情の漂う熊ノ平駅は、峠を行く人々の大切な中間地点として活躍した。と言うのも、鉄道開通当初は、横川−軽井沢間11.3km (新線は11.2kmである) に、実に75分を費やしたのである。
電化された後も、所要時間は45分くらいにしか短縮されなかった。約40%がトンネル区間という碓氷峠に於いて、この、熊ノ平駅での停車が、如何に乗客にとっても乗務員にとっても心休まる一時であったかは、想像に難くないであろう。
尚、この碓氷峠旧線の工事は、1891年 (明治24年) 2月から1892年12月にかけて行われ、26本の隧道と18本の橋梁を含む路線がたった1年9ヶ月余りで完成したが、同時に500名以上の尊い命が犠牲になった事を付記しておく。明治時代、鉄道工事に犠牲は付き物であったが、これほどの犠牲を出した難工事区間は全国でも少ない。僕は慰霊碑に手を合わせ、黙祷を捧げた。 |
|
 |
また、もう少し横川側まで行くと、赤い鳥居が見えてくる。横には、子供を抱いて立つ母親の像も建っている。
これは、この場所、熊ノ平で昭和25年6月9日早朝、突如として発生した土砂崩れに巻き込まれ亡くなった国鉄職員及びその家族50人を祀る社である。
この事故は、次のようにして起こった。6月8日、降り続いていた雨のせいで熊ノ平駅構内に土砂崩れが発生した。線路を堰き止めた土砂を取り除く為、多くの国鉄職員がその作業に当たっていたが、翌9日早朝、緩んだ地盤は再度土砂崩れを発生させ、作業中の職員はもとより、駅舎までをも飲み込み、中にいた職員の家族たちをも犠牲にした。
二次災害とはまさにこの事であり、この土砂崩れの復旧は23日になってしまう。 |
|
 |
献花は枯れ、社は風雨に曝されてしまっていたが、53年前にこの場所で起こった悲劇は、はっきりと僕に伝わってきた。
社の前で手を合わせ、目に付いたゴミを拾っておいた。鉄道を守る為に犠牲になった尊い命を、僕は決して忘れまいと心に刻みつけた。この場所は、忘れられてはならない歴史を孕んでいる。自分たちを襲った土砂崩れを生んだ山肌を、恨めしそうに見つめる母子像は、得も言われぬ迫力のようなものを醸し出していた。
恐らく、今日、ここを訪れたのは僕一人であろう。立ち去り難い気持ちであったが、長居する時間は無いので、踵を返す事にした。 |
|
 |
さて、お詣りを終えて、僕はふと大事な事に気付いた。出口が無いのである。
僕は下り線のトンネルから来たが、このまま下り線のトンネルを使って横川まで行く訳にはいかない。と言うのも、この先に口を開けている3号トンネルの長さは実に1km近い。上り線の2号トンネルもほぼ同じ長さであり、当然今まで同様電気は点かない。1kmもの長さを有するトンネルの中は真なる闇で、つまり、ここからは何とかして国道に出なくてはならないのだ。
先述の通り、ここには昭和41年まで駅があった訳だし、新線時代も変電所の職員がこの場所に通っていたはずである。という事は、必ずどこかに出入口はあるはずなのだが、歩いている限り見付けられない。もしかしたら、この草むらに埋もれてしまったのだろうか? |
|
 |
実は、先程、6号トンネルの辺りの明かり区間で、僕は蛇の抜け殻に遭遇している。この辺りには、つまり蛇も潜んでいるという事である。これはマズイ事になった。仮にその道を行かねばならぬなら、国道に救急車を待機させておくくらいの覚悟は必要である。非常にマズイ。
しかし、6年前までは確実に人の往来があったのだ。そう簡単に道が消えるはずはない。そう思いながら歩いていると、ふと車の音が聞こえる。それは、どうやら軽井沢側のトンネルから聞こえてくるようだった。
軽井沢側には先述の通り3本のトンネルが口を開けているが、そのうち右の2本は新線の上り線、下り線用である。しかし、左のトンネルは一見使用されていないように見えるが、中は舗装されているようだ。これだ、間違いない。 |
|
 |
よくよく見ると、トンネルの向こう側を車が走っている。国道18号線だ。僕はホッとして、そのトンネル──長さは125mである──を抜ける事にした。
しかし、国道側の入口には、立ち入り禁止の文字と共に柵で閉ざされていた (左上の写真)。僕はそれを乗り越えて脱出したのだが、そこで初めて、熊ノ平は現在立ち入り禁止になっている事を知ったのであった。
さて、再び国道を歩き続ける。カーブの番号は78にまで減っている。上を見上げると、熊ノ平の変電所の建物が見えた。さっきまで同じ高さに居たのに、もうこんなにも下ってきたのかと驚いた。 |
|
 |
さて、また国道の九十九折りを降りていくと、再び左手に遺構が現れた。旧線の碓氷第六橋梁である。第六橋梁は、めがねばしこと第三橋梁に次ぐ規模の橋梁で、めがねばしのような華やかさはないが、雑木林の中でもしっかりとした存在感があった。
ここから道路は旧線跡に沿うが、その遺構はどれも重要文化財に指定されており、説明の書かれた看板も立っている。
第五橋梁の看板を過ぎた辺りで、再び僕の横に車が停まった。今度は安中にお住いの若いお父さん。僕が「本当に乗っていいんですか」と訊く間もなく、車から降りて僕の荷物を軽四のトランクに積み込んでくれた。
|
|
 |
お父さんが声を掛けてくれたのは故無きではなく、自分にも僕と同じくらいの子供がいるのだという。しかも、話をしてみれば同じ京都に通う大学生と言うではないか。さすがに大学までは同じでなかったが、こんな偶然もあるものかと、名前と住所などを書いた紙を渡しておいた。
いくつものカーブを、巧みなハンドル捌きで降りていくと、ああ、やっと、濃い霧の中から、レンガ造りの碓氷第三橋梁がその威容を現した。
礼を言ってお父さんと別れ、しばしその場に佇んだ。
蕭々と降る雨の中、余計な物音一つしない碓氷の山中に、そう、6年前、あさまの車窓から見た時のまま、碓氷旧線第三橋梁、通称めがねばしは聳えていた。 |
|