<BODY>[PR]<A HREF="http://rd.ane.yahoo.co.jp/rd?ep=vqjgHe0yw0uTFeZlNVts3iaWT_GYDgiOBHW6YLypxidAErrAxklldGe1icOOrpce01ZdHljwq9gVeSPfD7SIVcm2mGrXLVTXU_GICUtiRnJCl8OML1AOXWUpfrncVjMxsz2K7FwvZjvvV8mKhn6xfoRZGI7fbHk.MlMCO6CplSRJEmNE8TsR9EZLXVaTLJ88vhA-&a=P3oskLQ9lm8VZVOnXnSD&s=rHQ0Uw49kWcuuA--&t=Ff14iMxhwysI&C=1&D=2&i=0&m=jp&F=0&guid=ON">看護師の好条件な求人情報満載:転職活動なら看護師専門サイトにお任せ!</A><BR /><HR></BODY>
10代旅納めの旅
『  納  涼  』
〜 碓氷峠の夏 〜
廃線後6年目 濃霧の碓氷峠11.2kmを踏破!

 今年も夏がやってきた。

 特別な思いで、毎年この季節を迎えるが、今年もそれは同じであった。

 10代最後の夏を迎えた僕は、10代最後の旅として、碓氷峠へ向かった。先に書いておくが、この旅は、本当に、一生忘れる事はないであろうと思える、素晴らしいものとなった。



 碓氷峠は、避暑地として有名な長野県軽井沢町の東にある、標高差約550mの峠である。江戸時代以前から、中山道の険所として知られ、日本で初めての関所である碓氷関が置かれたところでもある。
 そのように険しい地形であるから、鉄道を敷設するのも大変であった。詳しくは、鉄道用語の基礎知識、その他の用語集の「碓氷峠」の項を参照して頂きたい。
 僕がペンネームとして使っているこの地は、訪れる人は減ったものの、今でも数多くの人たちに愛され続けている。
愛知環状鉄道の新型車
 この日の旅は、愛知環状鉄道三河豊田駅から始まった。というのも、前夜は豊田市に住む親戚宅で一泊させてもらっていたのである。おかげで、早立ちさえすれば、次の日の早朝には京都に戻れるという、素晴らしい行程が組めた。

 6時2分三河豊田発の高蔵寺行きで発った。この愛知環状鉄道は、国鉄の払い下げ路線であり、元の名は『岡多線』と言った。その名の通り、東海道本線岡崎駅と、中央本線の多治見を結ぶ計画で造られた路線であるが、岡崎から新豊田までが開通した時点で国鉄再建法が成立、仕方なく経営は第三セクターに移管され、当初の計画も少し変更しながら、ようやく中央本線の高蔵寺までが開通した。
木曽福島駅前の灯籠
 だから、新豊田などは小型の新幹線駅といった感じではあるものの、三河豊田は、開通当初は対向も可能にするべく、ホームの両側に線路を敷設できる構造で建てられた駅であったのに、結局は一方にしかレールは敷かれず、ホームは島式なのに片面にしか線路が無いという状態になっている。貨物用の側線も敷設できるようにとの配慮からか広々とした空き地になった構内も、侘びしさを醸し出している。特殊な歴史の為、仕方のない事なのだろう。

 因みにこの路線は、元々トヨタの自動車を名古屋港まで運び出す事を目的に造られたもので、元来は貨物線であった。長大な貨物列車が通行できるようにとの配慮からか、国鉄再建法に引っかかった割には線形は良く、乗り心地も良い。車輌も、走行性能の良い新型車であり、なかなか快適なものであった。
 2005年に開催される愛知万博の輸送にも大きな力を発揮することになるため、線形改良工事なども行われているようであった。
南木曽駅に停車中の『ワイドビューしなの』
 高蔵寺からJRに入る。中央本線で信州に向かう旅路も、結構久し振りだ。高2の夏以来だから、3年ぶりという事になるが、それほど懐かしいという感はない。むしろ、これで何度目だろうという感の方が強いくらいだ。

 中央本線は、木曽川に沿った谷を、川の流れに極めて忠実に辿っている。
 木曽川は、河口部では非常に緩やかな流れとなって、長良川・揖斐川と共に有名な『輪中地域』を作っているが、ここらまで来ると、全く別の川かと思うほど、その様相は異なる。ゴツゴツした岩が川瀬にごろつき、深い緑の水を湛えた淵は見る者を吸い込んでしまうかのようである。
松本駅に停車中のスーパーあずさ
 特急しなのに乗ると、見える景観についての解説があるのだが、普通列車ではそんな解説はない。旅者からしてみれば、特急贔屓だが、毎日乗る地元の人からしてみれば、もう聞き飽きた、という事になるので行わないものと思われる。確かに、妥当な事であろう。

 ここで、岐阜県の可児から来られたというおかーさん2人と仲良くなる。可児は、日本ライン下りでも有名な土地である。
 計画もご自分たちで立てたというお二人は、中央本線・大糸線経由で今夜は富山の宇奈月温泉に一夜泊まり、明日は高山本線で帰るとの事。鉄道ファン顔負けの立派な計画を立案したおかーさんは、何十年もの時刻表愛読者。使用している切符も勿論青春18きっぷと、まさに、僕と同じいコンセプトだ。
松本駅の、『月見五目めし』
 話は盛り上がり、途中、奈良井駅からは、台湾から来られたという、非常に日本語に堪能な方も加わって、楽しい時間を過ごさせて頂いた。ホント、旅をしていて何が楽しいって、こうして見ず知らずの、いろんな所から来た人たちと、いながらにして話ができる、これは非常に大きい。

 松本でおかーさんたちとは別れ、僕は篠ノ井線で長野を目指す。
 松本駅で左の写真の『月見五目めし』を買ったが、炊き込みご飯が美味い。また、特筆すべきは山菜の煮かただ。今までこんなに美味い山菜料理は食べた事がないと言っても過言ではないくらい、この味は非常に美味かった。さすが、美味い駅弁ランキング49位だけのことはある。
姨捨駅からの眺望
 篠ノ井線は、中央本線と信越本線に挟まれた、あまり存在感の無い線であるが、途中、僕がJRの車窓ベスト10にも数えている借景がある。それが、スイッチバックでも有名な駅、姨捨(おばすて)だ。
 この駅は、標高が高い所にあるだけでなく、山の中腹、つまり峠に設けられているので、非常に眺望が開けている。長野盆地が一望でき、その美しさは左の通りだ。特急ならこの駅は通過してしまうのでスイッチバックすら味わう事はできないが、今回は普通列車であるし、対向列車待ちの間にゆっくりと景色を楽しめた。ここを通られる場合は是非、普通列車で通ってもらいたい。夏だけでなく、どの季節にもそれぞれの美しさがあるし、雨が降っても趣深い。今日はどこまでも青い空が善光寺平を包み、高原の夏といった風情が素晴らしい。
 さて、ここで、姨捨駅にあった案内板に書かれていた文章を載せておこう。
むかしむかしの話
『この姨捨駅は全国でもめずらしい、スイッチバック式停車と列車給水の駅として、明治三十三年十一月一日(一九〇〇年)に開通する。
 善光寺平の眺望そして鏡台山から上る月がゆるやかに里に続く棚田や、千曲川に映える美しさは、古来よりこの地を田毎の月と呼んでいる。
 姨捨公園、長楽寺境内には名月に感動し、更科紀行で詠んだ松尾芭蕉をはじめ、高浜虚子、宗祇法師などの句碑が建てられています。
 またこの姨捨駅近くを走る国鉄は、九つの駅を眺望する事が出来特に夜景は素晴らしく、日本三大車窓の一つに数えられています。』
山菜栗おこわ
 さて、長野駅では、美味い駅弁ランキング25位の『山菜栗おこわ』を買う。もう一つ、『きじ焼丼』も買ったが、僕としては後者の方が美味かった。
 前者は、非常にシンプルで、山菜そのものの味を引き出しており、また、容器も手編みの竹籠と、かなり凝ったものではあるのだが (左の写真参照)、味付けが非常に淡白で、ちょっと頼りない。もう少しアクセントがあってもよい気がした。美味い駅弁ランキング25位だから、あまりエラソーな事は言えないが、そう感じた。
 後者も、はじめはそのように感じてはいたのだが、一口喰った時点で、添え付けられていた唐辛子に気が付いた。これは!と思って、上に振りかけると、これが堪らないアクセントとなって、全体の味に大きな引き締まりを与えた。
 この唐辛子は、僕は絶対に必要と思う。勿論、辛いのは苦手な方はそのまま食べるしかないだろうが、それでは結構味が物足りない。是非、唐辛子をかけて食べたい。
開ける直前に中身をぶち撒けてしまった
 因みに、きじ焼丼とは言うものの、実は載っているのは鶏肉。ちょっと見かけ倒しなような気がしないでもないが、美味かったから良しとしよう。
 しかし、絶対に許せないのが容器!こんな容器があってよいだろうか?
 箱から出して、膝の上に乗せようとするなり、丼とフタがズレ、その拍子に、中身がいくらか床に散乱!本当なら、例えば上にはサクランボも乗っているが、この写真に写っていないのはそういう理由である。
 陶器で出来たかなり良い器だけに、非常に口惜しい。もう少し、容器の形状に工夫をしてもらいたいものである。ところで、碓氷峠の夏はこの器をご飯茶碗代わりに使う事にした (未だに使い続けている)。普通の茶碗より大きめなので、大喰らいの僕にはもってこいなのである。
濃霧に包まれた軽井沢駅
 しなの鉄道線に入り、外は見事に晴れ渡り、非常に気持ちの良い夏の一日といった感じだ。腹も脹れてきたところで目がたるんできて、少し眠る。上田の駅名看板を見たのは覚えているが、その辺りで眠りに入ったのだろうと思う。

 しかし!
 中軽井沢 (軽井沢の一つ手前) に着く際のアナウンスで起きてみると、何と!外が非常に濃い霧に包まれているではないか!
 もはやこれには、驚きを隠せなかった。さっきまであんなに晴れていたのに、この豹変ぶりはどういう事か。
日本一長い木橋も霧に包まれ……
 終点、軽井沢にて降車するも、霧とも雨ともつかない細かな水滴が、凄い勢いで降っている。霧雨、というような生やさしいものではない。最も的確な表現は、『霧雨非常ニ強シ』。
 しばらく待てば止むだろうかと、駅前郵便局で旅行貯金をしたり、展示されているEF63型機関車や草軽電鉄のデキ型機関車を見ていたが、一向に止む気配など感じられない。もはや、この雨では日のあるうちに横川に着かないと、遭難する虞すらある。
 観念して、バッグから折りたたみ傘を取り出した。まさか、10代最後の旅でこんな雨に降られるとは夢にも思わなかった。
 僕は、大切な友人の為に台風の後で荒れ狂う川に飛び込んだメロスのような気分で、碓氷峠へと歩き出し、軽井沢を後にしたのであった。
群馬県に入ったが、先はまだまだ長い
 まず、駅から歩いて約5分の所にある、矢ヶ崎公園に寄った。ここには、日本最長の木橋である矢ヶ崎大橋がある。左上の写真がそうだが、橋が好きで、ましてや日本最長ともなれば感動極まるはずの僕だが、この時ばかりはまだ雨である事が納得できず、非常にテンションが上がらなかった。
 さて、再び進路を横川に向ける。ここからは、基本的に国道18号線沿いを歩いたのだが、はじめは、どれが国道か分からず、無駄に時間を20分ほど喰ってしまった。というのも、雨の為に人が外に出ておらず、訊こうに訊けなかったのだ。
 しかし、雨の別荘地というものはいいものである。洋館建ての建物が、濡れて緑を発する樹木の間から垣間見える。しかし、国道沿いから離れたところは、かなり古い建物が多く、傷んでいたり朽ちていたり、ちょっと一人で歩いていると怖かった。
 長野新幹線と併走している廃線跡には、未だに架線も残っているし、トンネルもさして汚いという印象はない。今にもトンネルの中から、189系や489系のあさまが、EF63の重連に後押しされながら走り出てきそうな錯覚すら覚えた。
サミット付近にあった碓氷峠旧線の開通記念碑
 国道18号線にトンネルはない。トンネルで坂道とカーブを回避する新線跡と暫しの別れを告げ、霧雨降りしきる碓氷峠へと足を進める。
 軽井沢の駅前から約3600歩で、群馬県との県境、碓氷峠に到達。寄り道をしたし、道に迷ったので40分を要したが、本当ならその半分ほどの時間で着けるだろう。
 何だ、もう峠に着いたのか、そしたら横川ももうすぐだろう……などと早合点してはならない。碓氷峠は、軽井沢側が標高約940m、横川側が標高約390mだから、サミット (標高956m) は軽井沢から非常に近い場所にあり、したがって、横川への道程はまだまだ長いのである。
 サミット付近には、明治時代、碓氷峠の旧線 (鉄道用語の基礎知識、その他の用語集参照) 開通の碑が建っていた。左上の写真がそうであるが、相当大きな岩に、びっしりと字が書き込まれているところからも、明治政府の、中山道鉄道敷設計画への意気込みを見る事が出来ると思う。
 当初は全文を電子化しようと、何枚もの写真を撮って意気込んだのだが、いざやってみると、非常に文字が読みにくくて断念した。我ながら情けないが、猛烈に長い上に判読し難い旧字体を多数含むのである。
濃霧で薄暗い国道18号線
 それに、後から知ったところに依れば、これは当時の東大教授が創った、難解極まりなく格調高い漢文であるという。そりゃあ、国文の『こ』の字も知らない碓氷峠の夏には解読不可能に決まっている。
 ここから、国道18号線には、カーブの度に、それが横川側から数えて何番目のカーブであるかを示した標識が立っていた。その番号は、何と186!
 さすがに、これには少し萎えてしまった。一分間に1つの割合でカーブをクリアするように歩いていっても、それだけで3時間かかってしまう。勿論、実際は一分で2つくらいのカーブをクリアできるから、そこまでかからないにしても、先は相当長い。止みそうにもない強い霧雨が、余計に僕を萎えさせた。

 しかし、こうして峠道を歩くのは、そう悪いものではない。晴れてさえいれば。
 雨のせいで、辺りは仄暗く、妙なものが辺りに憑いていないかと、度々周りを見回しながら歩いた。
 標高900mの標識が見えた。カーブの番号は152まで減っている。そこで、僕の目にこんな看板が映った。
『国鉄 熊−軽線/16号 →/高崎電力區』 (但し、“/”は改行を示す)
 小さな看板で、国道から分かれて山の中の崖を下りていく細い地道の側の木の陰にあったが、その道の両サイドに、警戒色の柵があったから、もしや?と気付けたのだった。
 看板の意味を一応説明しておくと、熊−軽線とは、勿論、熊ノ平 (横川と軽井沢の中間にある、碓氷峠唯一の水平区間) から軽井沢に至る路線がこの先にあり、位置は16号トンネル付近である、という事であろう。

 注釈 : その後、僕は国土地理院発行の25000分の1地図で位置を確認したところ、どうやらこの道から降りていけるのは13号トンネルと14号トンネルの間である事が判明した。この「16号」の意味は、今のところ謎である。

   早速遺構を発見した訳で、迷わずその細い地道を下りては行ったのだが……。
 行けども行けども、なかなか線路跡になど行き着かない。それに、足下が雨でぬかるんでいて、坂道は急になる一方であるし、重い荷物を抱えている事も相まって、今にも足を滑らせそうである。霧は深いし、辺りは一層木々の密度が高くなっていく。万が一転落すれば、もはや誰にも気付いてなどもらえないだろう。何せ、携帯は電波が届かないし、国道からは大きく反れているし、こんな山道、鉄道が廃止されれば自然に還るのが定めだ、と自信を持って言えるほどの道である。
 仕方なく、百メートルほど行った所で折り返す。暗さと霧の為、視界はほんの数十メートルにまでなっていた。今自分がやってきた国道がもう見えないのである。この辺りで出会うものと言えば猿くらいのものだが、万が一熊にでも出会えば命に関わる。
9号トンネルの中には闇が広がる
 気を取り直して国道を歩く。雨足は収まる事無く、覆い被さる木々と共に、僕を濡らした。そうしててくてくと歩いていると、一台の車が僕の横に停まった。
「どこまで行くの?乗って行きなさい。」
 土浦から息子さんに会いに来る為、遙々やって来られた中年のご夫婦であった。雨でびしょ濡れの僕を嫌がりもせず、親切にも乗せて下さった。この時ばかりは、本当に嬉しくて嬉しくて、今まで張り詰めていた気が心の底から弛んだ程であった。
 碓氷峠の鉄道の遺構巡りをしているのだと言うと、じゃあ、ゆっくり走ってあげるから、気に入った場所で降りなさい、と仰有って下さった。
8号トンネルから9号トンネルを眺める
 碓氷峠の地図や線路図 (どこにどんな長さの橋梁やトンネルがあるか、また線路の勾配などのデータを詳細に書いた図面) を見比べると、どうやら下り線の8号トンネルからは、トンネル一本当たりの長さも短く、熊ノ平まで歩けそうである。その辺りで車を停めてもらった。
「気を付けてね」という温かい言葉を受けて、そのご夫婦と別れ、僕は、まだ鉄道が走っていた時代に、保線用の車が通っていたと思われる、細いぬかるんだ地道を通って、新線の線路上に出た。そこから国道を眺めると、何とまだ先程のご夫婦の車が停まっているではないか。僕がちゃんと廃線跡上に出られるまで、見届けてくれようとしておられるのだろう。
「大丈夫ですよ〜」と言いながら、大きく手を振ると、軽くクラクションを鳴らして、車は静かに動き出した。本当に、お世話になりました。リフレッシュして、さて、僕はいよいよ廃線跡の上に立っている。
スイッチはあったが、電気は点かなかった
 大丈夫とは言ったものの、トンネルの中は真っ暗である。左のような照明装置もあったのだが、当然のように稼働しない。さすがに「非常時以外は押さないで下さい」の方は押す勇気が湧いてこなかったが、結果は同じだっただろう。それはそうである。架線に電気が流れていないのに、トンネル内の照明が点くはずはない。道理と言えば道理である。
 諦めて、とにかく辺りを撮影し、いざトンネルの中に入る。一つ目に入った8号トンネルは、軽井沢からのキロ程で約3.7kmの所にある。長さは約170m余りであったように記憶しているが、定かではない。大して長くはないのだが、途中にカーブがあり、向こう側が辛うじてしか見通せないのが不安の種であった。霧雨降りしきり、辺りは薄暗く、人気のないトンネルの中。誰だって少しは不安感に襲われるだろう。
8号トンネルの横川側入口
 僕が歩いているのは下り線、つまり、横川から軽井沢に向いて列車が峠を登っていた線路だ。下り列車なのに峠を登る、というのは、よく言われた話である。勾配は66.4‰。碓氷峠の最急勾配である66.7‰は、すぐ横手にある上り線 (つまり、軽井沢から横川に向け、列車が峠を下っていた路線) の大部分である。しかし、下り線ではこの66.4‰の勾配が最急となっている。
 下り線8号トンネル付近では、上り線と下り線は30メートル程の間隔を空けて走っており、線路の間は深い繁みになっている。上り線の方にも行きたかったのだが、結局行けなかったのにはそう言う理由があるのだ。
 下り坂のトンネルなので、足下に気を付けながら、枕木の上を一歩一歩踏み締めて歩く。懐中電灯も持ってこなかったので、殆ど足下は見えないが、170mくらいのトンネルなら、何とかまだ外の光が届く。
 傘をたたみ、あまり速度は落とさないようにしながら進む。速度を落とせば、到着時刻は遅くなるし、それに、妙なものに狙われやすくなる (?)。とにかく、そんな訳で、後ろや横にも気を配りながら歩いていく。
6号トンネルから7号トンネルを望む
 だが暗闇の恐怖さえ我慢すれば、トンネルの中は悪い環境ではなかった。
 まず、雨の影響がない。雨漏りも殆どしていなくて、まだまだ丈夫であった。それに、トンネルの中独特の涼しさがある。この日は雨ではあるし、避暑地軽井沢の近くではあるし、じっとしていれば充分涼しい温度だったが、これだけ歩くとさすがに汗ばむ。その汗も引くほどであるから、体感温度は相当低いのだろう。勿論、恐怖感の為に体中の汗が引く、というのもあるだろうが。
 カーブを曲がるにつれ、だんだん出口の明かりが大きくなり、一本目のトンネルを抜けた。取りあえずは一段落である。

 しかし、トンネルが終わればすぐ次のトンネルに入る、というのが碓氷峠である。数十メートルの明かり区間 (トンネルではない区間の事) の後、すぐ次の7号トンネルに入る。
5号トンネルと6号トンネルの間
 7号トンネルは、やはり途中でカーブをしてはいるものの、8号トンネルよりも短く、これは結構あっという間に抜けてしまった。それでも、後で調べてみると約3分を要していたから、自分では結構意外であった。
 短い明かり区間を経て、再び6号トンネルに入ったが、このトンネルが最悪であった。235.3mで、しかも途中で曲がっている為、直接には反対側を見通す事が出来ない。トンネルの前に長さの書かれたプレートが貼ってあったから、何とか入れたものの、もし何も表記が無かったら、かなり戸惑っていたと思う。
 早足で歩いても、4分程度を要したものと思われる。ようやく出口の明かりが大きくなってきた時には、本当に一安心した。
熊ノ平から、軽井沢側の3本のトンネルを見る
 ここからは、5号トンネルも4号トンネルも短かった。5号トンネルはこれも中で曲線を描いてはいたが、向こう側が見えたのでそう気は重くなかったし、4号トンネル (長さ約120m) は特に、すぐ先に熊ノ平の広大な構内が広がっているのが見えるので、全く閉鎖感がなく、すぐに通り抜けられた。

 相も変わらず雨は止みそうにもない。しかし、熊ノ平に到着したという感動で、僕は幾分か気分が高揚してきた。尤もそれは、今まで救いようがない程に気分が沈み込んでしまっていたからでもあるのだが。
 熊ノ平は、アプト時代に信号所と駅、また、SL時代は給炭給水所も置かれていた碓氷峠唯一のレベル区間で、勿論明かり区間となっており、今僕が出て来た4号トンネルから横川側の3号トンネルの入口までは300m程ある。
 碓氷峠に鉄道在りし頃は、この熊ノ平が格好の撮影ポイントで、トンネルを抜けて短いレベル区間を走るあさまや白山の写真を見た事のある方は多いに違いない。
未だにレールもポイントもそのままだ
 アプト時代は単線であったから、ここで上下列車の交換が行われ、その待ち時間を利用して、駅では『峠の力餅』が飛ぶように売れた。SL時代には、機関士がようやく息をつける場所であり、その面影は今も遺っている。
 新線になってからは駅も廃止され、変電所があるのみの場所になってしまったが、絶好の写真撮影ポイントとして、その名は忘れられる事などなかった。しかし、その新線も廃止された今となっては、訪れる人も数少ない。変電所も、建物は残っているが稼働しているのかどうかは分からなかった。ただ、国土地理院の地図に依れば、未だに変電所のマークが書かれているので、もしかしたら現役なのかも知れない。しかし、白い変電所の建物には人気は全く感じられず、辺りは草が覆い茂っていた。
ここには昭和41年まで駅があった
 熊ノ平の中ほどに来ると、山手に石碑が建っている。この石碑は、サミットに建っていたものと同じ物で、碓氷峠の鉄道開通記念碑『碓日嶺鉄道碑』である。
 同じ物、と言うより、本当はこちらが本家本元で、サミットのは実はレプリカなのだ。鉄道開業当初はこちらの碑が軽井沢の駅前に立っていたが、関東大震災で損傷し (碑の中ほどにある割れ目はその時のものだ)、その際にレプリカを作ってサミットに建て、また本物も修理して熊ノ平に置いたという訳である。横手には口語で熊ノ平駅について紹介してくれている文もあった。左にその写真を掲げる。
碓氷峠鉄道開通記念碑。
 清楚な山間の駅、といった風情の漂う熊ノ平駅は、峠を行く人々の大切な中間地点として活躍した。と言うのも、鉄道開通当初は、横川−軽井沢間11.3km (新線は11.2kmである) に、実に75分を費やしたのである。
 電化された後も、所要時間は45分くらいにしか短縮されなかった。約40%がトンネル区間という碓氷峠に於いて、この、熊ノ平駅での停車が、如何に乗客にとっても乗務員にとっても心休まる一時であったかは、想像に難くないであろう。
 尚、この碓氷峠旧線の工事は、1891年 (明治24年) 2月から1892年12月にかけて行われ、26本の隧道と18本の橋梁を含む路線がたった1年9ヶ月余りで完成したが、同時に500名以上の尊い命が犠牲になった事を付記しておく。明治時代、鉄道工事に犠牲は付き物であったが、これほどの犠牲を出した難工事区間は全国でも少ない。僕は慰霊碑に手を合わせ、黙祷を捧げた。
50のみたまを祀る社
 また、もう少し横川側まで行くと、赤い鳥居が見えてくる。横には、子供を抱いて立つ母親の像も建っている。
 これは、この場所、熊ノ平で昭和25年6月9日早朝、突如として発生した土砂崩れに巻き込まれ亡くなった国鉄職員及びその家族50人を祀る社である。
 この事故は、次のようにして起こった。6月8日、降り続いていた雨のせいで熊ノ平駅構内に土砂崩れが発生した。線路を堰き止めた土砂を取り除く為、多くの国鉄職員がその作業に当たっていたが、翌9日早朝、緩んだ地盤は再度土砂崩れを発生させ、作業中の職員はもとより、駅舎までをも飲み込み、中にいた職員の家族たちをも犠牲にした。
 二次災害とはまさにこの事であり、この土砂崩れの復旧は23日になってしまう。
土砂崩れの殉難碑と母子像
 献花は枯れ、社は風雨に曝されてしまっていたが、53年前にこの場所で起こった悲劇は、はっきりと僕に伝わってきた。
 社の前で手を合わせ、目に付いたゴミを拾っておいた。鉄道を守る為に犠牲になった尊い命を、僕は決して忘れまいと心に刻みつけた。この場所は、忘れられてはならない歴史を孕んでいる。自分たちを襲った土砂崩れを生んだ山肌を、恨めしそうに見つめる母子像は、得も言われぬ迫力のようなものを醸し出していた。
 恐らく、今日、ここを訪れたのは僕一人であろう。立ち去り難い気持ちであったが、長居する時間は無いので、踵を返す事にした。
中央が横川方面へのトンネル、右の白い建物が変電所
 さて、お詣りを終えて、僕はふと大事な事に気付いた。出口が無いのである。
 僕は下り線のトンネルから来たが、このまま下り線のトンネルを使って横川まで行く訳にはいかない。と言うのも、この先に口を開けている3号トンネルの長さは実に1km近い。上り線の2号トンネルもほぼ同じ長さであり、当然今まで同様電気は点かない。1kmもの長さを有するトンネルの中は真なる闇で、つまり、ここからは何とかして国道に出なくてはならないのだ。
 先述の通り、ここには昭和41年まで駅があった訳だし、新線時代も変電所の職員がこの場所に通っていたはずである。という事は、必ずどこかに出入口はあるはずなのだが、歩いている限り見付けられない。もしかしたら、この草むらに埋もれてしまったのだろうか?
熊ノ平への唯一の出入口?
 実は、先程、6号トンネルの辺りの明かり区間で、僕は蛇の抜け殻に遭遇している。この辺りには、つまり蛇も潜んでいるという事である。これはマズイ事になった。仮にその道を行かねばならぬなら、国道に救急車を待機させておくくらいの覚悟は必要である。非常にマズイ。
 しかし、6年前までは確実に人の往来があったのだ。そう簡単に道が消えるはずはない。そう思いながら歩いていると、ふと車の音が聞こえる。それは、どうやら軽井沢側のトンネルから聞こえてくるようだった。
 軽井沢側には先述の通り3本のトンネルが口を開けているが、そのうち右の2本は新線の上り線、下り線用である。しかし、左のトンネルは一見使用されていないように見えるが、中は舗装されているようだ。これだ、間違いない。
国道から熊ノ平を見上げる
 よくよく見ると、トンネルの向こう側を車が走っている。国道18号線だ。僕はホッとして、そのトンネル──長さは125mである──を抜ける事にした。
 しかし、国道側の入口には、立ち入り禁止の文字と共に柵で閉ざされていた (左上の写真)。僕はそれを乗り越えて脱出したのだが、そこで初めて、熊ノ平は現在立ち入り禁止になっている事を知ったのであった。

 さて、再び国道を歩き続ける。カーブの番号は78にまで減っている。上を見上げると、熊ノ平の変電所の建物が見えた。さっきまで同じ高さに居たのに、もうこんなにも下ってきたのかと驚いた。
国道のすぐ側に残る遺構
 さて、また国道の九十九折りを降りていくと、再び左手に遺構が現れた。旧線の碓氷第六橋梁である。第六橋梁は、めがねばしこと第三橋梁に次ぐ規模の橋梁で、めがねばしのような華やかさはないが、雑木林の中でもしっかりとした存在感があった。
 ここから道路は旧線跡に沿うが、その遺構はどれも重要文化財に指定されており、説明の書かれた看板も立っている。

 第五橋梁の看板を過ぎた辺りで、再び僕の横に車が停まった。今度は安中にお住いの若いお父さん。僕が「本当に乗っていいんですか」と訊く間もなく、車から降りて僕の荷物を軽四のトランクに積み込んでくれた。
夢にまで見た碓氷第三橋梁、めがねばし
 お父さんが声を掛けてくれたのは故無きではなく、自分にも僕と同じくらいの子供がいるのだという。しかも、話をしてみれば同じ京都に通う大学生と言うではないか。さすがに大学までは同じでなかったが、こんな偶然もあるものかと、名前と住所などを書いた紙を渡しておいた。
 いくつものカーブを、巧みなハンドル捌きで降りていくと、ああ、やっと、濃い霧の中から、レンガ造りの碓氷第三橋梁がその威容を現した。
 礼を言ってお父さんと別れ、しばしその場に佇んだ。
 蕭々と降る雨の中、余計な物音一つしない碓氷の山中に、そう、6年前、あさまの車窓から見た時のまま、碓氷旧線第三橋梁、通称めがねばしは聳えていた。
この階段を上がるとめがねばしの上だ
 66.7‰の勾配に架かる4連アーチの橋梁は、建造から110年を経た今も尚、下から見る限り当時のままである。レンガ橋としては国内最大で、200万個を使用しているという。仮に、200万個を真上に積んでいくとすると、てっぺんは、ジェット機の飛ぶ高さを遥か越え、入道雲の頂部をも凌ぎ、対流圏を出て成層圏にまで達する。大変な量である。
 しかし、この橋梁も1年9ヶ月の短い工期のうちに突貫工事で建造された。時に明治25年の事であるから、先人たちの偉業には頭が下がる一方である。

 美しいそのアーチに見とれた後、いよいよ「アプトの道」に入り、今回の旅路もクライマックスを迎える。「アプトの道」とは、新線廃止に伴って、既に平成五年に鉄道記念物に指定されていた碓氷峠旧線跡をトレッキングコースにしようという企画に始まり、現在では横川から丸山を通ってこの、碓氷第三橋梁までの約4.8kmが整備されている。
めがねばしの上より国道を望む
 ファンとしては、是非、ここから先程の熊ノ平までも整備を行って、トレッキングを楽しめるようにして欲しいところだが、第三橋梁の軽井沢側に口を開けている第六トンネルは長さが546mもある為、普通に歩くには長すぎる。万が一真ん中辺りでトラブルがあった場合、出口まで270mも歩かねばならないといけない、というのはマズイ。しかも、出たところで携帯の電波も通じないのでは、危険この上ない。
 実は、途中には国道のすぐ側の山肌に出る為の横穴もあり、外に出る事も可能ではあるが、あくまでも工事を簡単にする為に作られた横穴であり、避難用などのものではないので、人は屈んでも通りづらいような大きさだ。
めがねばしの上はこんな感じである
 このような事を考えると、非常に残念ながら、第三橋梁から軽井沢側にアプトの道が延びるとは考えにくい。
 階段を上っていよいよ第三橋梁上に出る。上りたての所に口を開けているのが先述の第六トンネルであり、ポータルの横に、山肌に沿って曲線を描く美しい翼壁を持つ事で知られる。しかしその入口はバリケードとトラロープ (関西人は俗に、黄色と黒の縞模様は何でも「トラ色」と呼ぶ習慣があります) で封鎖され、「立入禁止」の立札も立っていた。
 続いて橋の上に出て、碓氷湖を探したが、何と、濃い霧の為に全く見えない。橋の上を端から端まで歩いてみたが、どこからも碓氷湖の湖面は見られなかった。普段なら、すぐ近くに碧い湖面が望めるはずなのだが。
 諦めて反対を見ると、霧に紛れながらも新線のアーチが2本、現役の頃のままの姿で架かっていた。橋梁上を実際に歩いてみないと、本当に本当のところは分からないが、見た目は本当に、6年前のままだった。
霧の中に架かる2本の新線橋梁
 ここまで来て、ようやく僕はゆっくりと碓氷峠を味わえた気がした。今まで、雨に打たれたり真っ暗なトンネルを通ったり出口の無い信号所跡で蛇に咬まれる覚悟をしたりと、とても旅の気分とは程遠い感覚であったが、ここで、この何度となく写真で見てきた光景を初めて目にして、心にも余裕が出て来たのだろう。
 因みに僕は新線橋梁側からめがねばしを眺めた経験はあるが、めがねばし側から新線橋梁を眺めたのは初めてなのである。やはり、多くの人の心を奪ってきた、横軽随一のビュースポットは、今でもその色褪せる事なく存在した事に安心した。
 谷間を流れているはずの碓氷川は、覆い被さる広葉樹に隠されてその流れの音すらも漏らさない。使われなくなったと思いたくないコンクリート橋は、嗚呼“あの頃”と何も変わる事無く、深山にそのすらりとした体貌を横たえている第三橋梁!幽邃である。
ナトリウムランプで明るく照明された旧線五号トンネル
 ここからは、整備された道の上を歩くので今までとは歩き易さが違う。道床は美しく舗装され、手すりも付けられている。しかしそれは同時に、下から見ればそれなりに昔のままだった橋梁だが、橋の上からは旧線の面影が全く消えてしまった事をも意味した。
 しかし、紅葉の季節はさぞや美しいだろう。もしかしたら、旧線橋梁上も落ち葉で真っ赤に染まるやも知れない。

 碓氷第三橋梁に名残を惜しみながら、僕は、見違えるほどに整備された五号トンネルに入っていった。
四号トンネルの横川側
 五号トンネルの中は水の滴る箇所もなく、壁面は新たにコンクリートを打った箇所もあり、地面も歩きやすいように整備されてはいたが、やはり面影が無くなってしまったという感は否めなかった。このトンネルは結構長く、また、途中で大きくカーブしているので、いくらトンネル内はナトリウムランプにより明るく照らし出されているとは言っても、辺りに気を配りながら歩かずにはいられなかった。
 すぐに次の四号トンネルに入る。長さは100m以上あっただろうが、真っ直ぐなトンネルであり、今までの事を思えば非常に短く感じた。

 ここを、40年前までは4輌のアプト式電気機関車によって牽かれた峠越えの列車が行き来していたのだ。単線で、機関車つなぎ換えや熊ノ平での行き違いなどもあり、表定速度は15km/hに過ぎなかったが、それでも、今までの馬車鉄道や徒歩に比べれば遥かに早くて楽であり、峠越えの列車はいつも満員だった事だろう。
碓氷湖を望みながら
 線路際は草で覆われてはいたが、その伸び方を見てみるに、この夏も少なくとも一回は草刈りが行われた事は間違いなかった。アプトも道は、こうした陰で支える人々の力により、これかも皆に親しまれ続ける事を祈りたい。
 すぐに、次の三号トンネルに入る。ほぼ連続した三本のトンネルをくぐると、右手に碓氷湖の湖面が見えた。例の、めがねばしからは見る事のできなかった湖である。湖面を見下ろせる道の側には「中尾小屋」という屋根の付いた休憩所もあり、峠を登る人はここで一服をする事ができる。
 霧深い碓氷湖の眺めは幽遠で、数百メートル先にあるはずなのに、今にも見えなくなってしまいそうであった。対岸に架かる赤い橋も、その艶やかな色を密めき、湖と対岸全体が、同じ薄墨色であった。
アプトの道の脇には古レールが
 中尾小屋のベンチも、降りしきる(たち)の悪い霧雨のせいで濡れており、座る事などできなかったが、小屋正面の手作りらしい看板に、あまり上手くはない筆の字で書かれた「中尾山から風に誘われ中尾川をくだる」という詩が印象的であった。
 アプトの道は左に大きくカーブを切り、二号トンネルを目指して下りていく。
 ここまで来て、ジーパンの左ポケットがもぞもぞ動くのを感じた。ようやく携帯の電波が届くようになり、峠を歩いている間に溜まっていたメールが一挙に届いたのだ。携帯電話によって、旅の最中にも様々な人から連絡が入り、時には旅の気分を台無しにされる事もあり、それにはかなりうんざりしている僕であったが、この時ほど携帯の電波が通じて安心感を味わった時はなかった。
新線と合流する
 ところで、二号トンネルを抜けた所に、何故か数本の古レールが放置されていた。しかも、アプトの道はそのレールを避けるように、わざわざ旧線跡から外れて、曲げて付けられている。
 旧線が廃止されてから40年間、このレールはここに放置されっぱなしだというのだろうか?それに、何故アプトの道は、この古レールをわざわざ避けるように付けられているのだろう?古レールを残しておいてくれたのは鉄道ファンに対するサービスだとしても、別にアプトの道をわざわざ曲げなくても、古レールの置き場所を変えればいい訳だし、どこか腑に落ちない部分が残った。
 一号トンネルも抜けると、坂本の集落の中を通る。右手には「くつろぎの郷」という、温泉や交流スペースが一緒になったような施設が建っている。国道18号線を短いトンネルでくぐると、左手から新線が寄り添ってくる。いや、正確には、こちらが新線の方に寄って行っているのだが。
 下り線の下をくぐって、アプトの道として整備されている上り線の上に出る。もう時刻は18時半を回り、辺りは薄暗くなりつつある。
霧積川橋梁も健在だ
 旧線との合流地点より軽井沢側は、線路もそのままの姿で残っており、バリケードが置かれていなければ、ここも眺めは現役時代そのものだ。横手の電柱には、『サルにエサを与えると危険です 群馬県』という看板もあった。
 坂本の集落を出ると、また辺りには民家が無くなる。しかし、ここからは見所が盛り沢山だ。
 まずは霧積川橋梁。何の事はないコンクリート製の支柱を持つガーダー橋だが、鉄道が廃止されても変わることなく流れ続ける霧積川を覗き込んだ。碓氷の山に降った雨水を湛えた滝川は、横川駅のすぐ側で、第三橋梁によって渡った碓氷川と合流する。
丸山信号所蓄電池室
 さて、しばらく歩くとカーブの向こうに丸山信号所が見えてきた。
 ここはアプト時代、横川駅からの複線区間が単線になる場所であり、また、横川火力発電所で発電した電気を蓄電し、峠を登る列車に給電する為の施設であった。明治45年に建設された建物は非常に傷みが激しく、屋根が崩れ落ち、窓ガラスも割れ放題であったが、新線廃止後の整備で大改修され、今では創建当時に近い状態にまで復元されている。
 ピカピカの窓ガラスと真っ新の瓦を載せているのに対し、レンガは色も剥げ、百年の歴史を残しているところがミスマッチであったが。
 中は真っ暗で外からはよく見えない。その上、周囲10m以上が有刺鉄線で囲われ、立入禁止となっているので見ように見られない。
丸山信号所変電機室
 1997年、横軽廃止直前に来た時は、中にも入って (当時でもこれは違反行為でした。スミマセン!)、割れたガラスのかけらを形見に持って帰ったものだが。今や恐らく、室内はきれいに掃除され、あの当時はあちこちに散乱していたガラスのかけらや、崩れ落ちた屋根の鉄骨は全て片付けられているのだろう。そう考えると、アプトの遺品を…重要文化財にまで指定されている遺構の一部を、冷たく始末されたような気がしてどこか儚い。

 それに、よくよく見ていると、気付いた事がある。ダブルルーフになった屋根の間からにゅうっと伸びていた、排煙設備が再現されていない!
丸山信号所全景
 変電室棟 (横川側の建物) は、中に変電機を設置している為、屋根の上に排煙設備があった。機械から出た煙を排出する為、設置場所には規則性が無く、確か7個だったか11個だったかの煙突が、良いアクセントになっていたのに。
 確かにこれから先、そんな煙突が必要でないのは分かっているけれど、せっかく復元するんだからそれくらいの心配りは欲しい。大体、変電所の建物自体、不要だが再建したものではないか。勿論、僕はしばらく見ていないと気付かなかったが、何度も見慣れた人なら一瞥してこの違いを看破する事だろう。これは勿体ない『改悪』である。仮に『お宝鑑定団』にでも出したとすれば、価値が数分の一若しくは十分の一以下とされるに違いない。

 辺りもいよいよ暗くなってきたし、丸山は良いのやら悪いのやら分からない改造を施されているし、片付かない気持ちでしかなかったが、まだ横川までは1km程ある。ここで真っ暗になられると心細いので、退散した。
架線越しに上信越自動車道橋梁を見る
 僕は、橋が好きである。珍しい人種なのかも知れないが、明石海峡大橋の勇姿にはかなり長い間見入ってしまったし、吹上浜のサンセットブリッジなどは、この橋の上で丸一日いてもいいと思ったほどだ。
 しかし、どうしても好きになれない橋もある。それが、この、信越本線を悠然と跨ぐ上信越自動車道の斜張橋である。高さ、姿形、規模、どれを取ってもなかなかのものであるが、恐らく、僕は一生、この橋を好きになれないだろう。理由など、述べる必要もあるまい。ここまで僕の文章にお付き合い下さった皆様になら、こんな事、書いた方が失礼であろう。
 左の写真の構図は、咄嗟に思い付いたものではなく、以前からやってみたかったものである。碓氷峠の遺構の向こうに、自動車道の高い橋梁を映し込む事で、何かが見えると思ったのだ。特に、今回はたまたま薄暮の空がバックになったが、これは予期せぬ事であったにも拘わらず、より雰囲気を掻き立ててくれる効果となった。僕が自分の撮った写真について本文で解説を加えるなど滅多にない事なので、ここはご辛抱頂きたい。
排水溝の蓋として残るラックレール
 そこからは、既に何度も通った道である。中学生の時、高校生の時、そして今回、大学生としてここを通るが、その時々に、碓氷峠は僕に違った表情を見せてくれ、新たな発見をさせてくれ、異なる見方を与えてくれ、そして何より、自分を見つめ直す機会を与えてくれた。

 横川機関区跡の敷地が見えてきた。鉄道文化むらに集う車輌たちも、薄闇の中に何とか姿を浮かばせている。旧横川郵便局前の踏切で、第三橋梁から続いたアプトの道は終わった。(本来はこちらが起点である)
 踏切横の道路を横切る溝には、ラックレールがいつに変わらぬ独特の姿でその余生を過ごしていた。それにしても、特殊な形状をしたこのレールを、よくもここまで上手く再使用したものである。
 犬を連れた小学校中学年くらいの地元の女の子が、フラッシュを焚いている僕の横を、不思議そうな顔で通っていった。何を溝の蓋なんか撮っているんだ、と思ったのだろうか。
動態保存機EF63-25号機
 しかし、よくよく考えてみるに、廃止されて6年である事と、この子の年齢を考え合わせると、もしかしたら、この子は、碓氷峠の栄光の時代を全く覚えていないのかも知れない。ここに、数多くのレールファンたちが訪れ、峠の釜めしは駅のホームで飛ぶように売れ、2輌の機関車に後押しされた11輌編成もの特急が、碓氷の急勾配に挑んでいったあの時代を。
 動態保存機であるEF63の25号機が道のすぐ側に留置されていた。もう文化むらの営業終了時間を()うに過ぎており、パンタも下ろされていたが、もう九分ほど暮れてしまった闇の中、それでも現役時代と変わらない迫力は伝わってきた。
EF63第二エンド側のジャンパ栓受け
 横川駅は闇の中に光を放っていた。今通ってきた碓氷の山々はもう真っ暗な世界に覆われ、夜の深い眠りへと入っていこうとしているようである。駅の、駅舎と反対側に留置された静態保存機である11号機を撮ったり、あの頃と変わりないおぎのやの構えを眺めたり、EF63の3号機の動輪を見たりしているうち、列車の時刻となった。
 19時58分発のこの列車を逃すと、次は1時間半後まで列車はなく、しかもそれで終電である。碓氷峠に鉄道在りし頃は1時間に2本以上の特急が、22時台まで走り続けていたものであるが、本当に残念な事になってしまった。

 高崎行きの鈍行に乗り込む前に、もう一度闇の中に眺めた碓氷の山は、無表情で冷淡で、とてもあの中に、第三橋梁をはじめとする鉄道の遺構を抱いているとは思い難かった。
上野駅のジャイアントパンダ
 高崎乗り換えで22時8分、上野に着いたが、今夜のお宿であるムーンライトながら91号は東京を23時47分に出るから、かなり時間に余裕がある。しかし、こういう、変に時間の余裕がある時に限って、妙な事に巻き込まれ、或いは自分が妙な事をしてしまい、いつも最後はギリギリになる事を、僕はここ一年少しの旅の経験で分かっていた。
 果たして、山手線の品川付近で人身事故が起こったのである。僕はその時、駅名小印をもらいに、上野駅の一つ東京寄りである御徒町駅で途中下車したところだった。
「品川付近で事故という事は、被害は山手線だけでなく、京浜東北線・東海道本線などにも及ぶだろう。だからムーンライトながらも身動きできないから、乗れなくない事はないだろうが、これはマズイ事になった……」と思っていると案の定、到着した列車は上り・下り共に全て運転を一時中断し始めた。その直後、何とか次の秋葉原までは行けたので、そこから総武線の御茶ノ水行きに乗り換え、さらに中央線の列車に乗ってようやく東京駅に着く事が出来た。
ムーンライトながら91号は485系で運行される
 中央線は中央線で、踏切だったか信号だったかに事故があって運転が遅れており、結局時刻は既に夜半を回っていた。しかし予想していた通りムーンライトながらはまだ東京駅にいたので、行程に差し障りは無さそうであった。
 1時間余遅れでムーンライトながら91号は東京を出た。僕はノートを広げ、旅日記を付けながら各駅の到着時刻をメモしていった。ほぼ1時間遅れで出た熱海で眠ってしまったが、静岡で再び起きた時には、遅れは40分程にまで小さくなっていた。その後も順調に遅れを取り戻したらしく、さすがに予定通りではなかったが、翌朝6時過ぎには、大垣に降り立つ事が出来た。約20分遅れである。
 6時31分発の網干行き普通で京都を目指した。この列車は京都まで先行する。僕はお決まりのようにこの列車の中でも熟睡しながら早朝の京都に帰った。


このページのトップへ
紀行文一覧


[PR]
大人気!看護師単発アルバイト:看護師の単発のアルバイトを手軽に検索!