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深夜2時半、新得駅前に立つ。 新得は地図で見れば分かるように北海道のほぼ中心に位置している街である。その上、国土地理院が行った計算に依れば、北海道の重心点が新得町内に位置する事も分かったという。その点は北緯43°28′21″、東経42°49′40″で、トムラウシ温泉の近くである。駅前にはそれを記念し、地元の小学生三年生(当時)が原案を出した、ヤジロベエのモニュメントが建っている。重心をイメージしたのであろうが、小学生なのに重心とヤジロベエの関係に目を付けるとは大したものである。 因みに重心とは、平面図形に於いては、均質な平板である形を作った際、その板を一点だけで支える事のできる点である。つまりこの場合なら、板で北海道の形を切り抜いて指一本で支えようとした時、指をトムラウシ温泉付近に持ってくれば、丁度バランスよく支えられる。因みに、どんな図形にも重心は存在し、それはたった一つだけしかない。また、重心は図形の内部に存在するとは限らず、例えば日本全体としての重心は富山県沖の日本海である北緯37°31′03″、東経137°42′33″にある(この経緯度は世界測地系による)。尚、この重心については、国土交通省国土地理院のHPに詳しいので、是非御覧頂きたい。 また、家庭教師の性を出してもう少し語っておくと、三角形の重心は3中線の交点(中線とは、ある頂点から向かい合う辺の中点に引いた直線)、正方形・長方形・菱形・平行四辺形なら対角線の交点となる(これら以外の四角形では当てはまらない)。 だからヤジロベエと重心を結び付けるというのは非常に巧いのだが、さすがにこの着想は子供が考えたのではなく、先生か、或いは新得町の関係者が子供に重心について教える際に話したのかも知れない。さすがに、小学三年生にこの発想は無理ではないかという気がする。 |
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北の大地の無人駅に一人きり。なかなか良いものである。川湯温泉駅には足湯が併設されており、運転士さんには「足湯に浸かってゆっくりしてから出発するといい」と言われていたが、これから10数キロを歩かんとする身には、そんな悠長な事をしている心の余裕がなかった。しばらくの間、駅でもう一度予定を確認し、いざ、冬の摩周湖へと歩き始めたのであった。 川湯温泉には、その名の通り温泉が湧き出しているのだが、その熱源が、駅前に聳える硫黄山(アトサヌプリ)である。川湯温泉駅に着く前から、列車内にどうも特異な臭気が漂ってくるなと思っていたら、当にこの山のせいなのであった。無論の事、硫黄山は活火山であり、この日ももくもくと噴煙を噴き上げていた。しかし、大爆発するタイプの火山ではないようで、小さな噴火を短い周期で繰り返すようであった。 |
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もう少し登ると、阿寒の山々が遙かに望まれた。以前、釧路湿原の大観峰(釧網本線釧路湿原駅下車)から阿寒の山々を眺めた時の記憶があったので、あれが雄阿寒岳、あれが雌阿寒岳と阿寒富士……という風に、判別する事ができた。マリモで有名な阿寒湖は、この角度からだと雄阿寒岳の陰になって望まれない。また、視線を右手に移せば屈斜路湖の湖面が開けだした。川湯温泉の温泉旅館街も見え、その向こうには藻琴山や美幌峠が聳えている。 カムイヌプリ山頂の標高は857mなので、地図から判断すれば、大体標高600mくらいまで登ってきたようだ。硫黄山は標高500m余しかないので、岩肌が露出した丸っこい山頂までも眼下に望まれ、手前には先程歩いてきた長い直線道路が、雑木林の中に細い細い切れ目を作ってこちらへ延びてきている。僕はここらで、川湯温泉駅を出て約1時間半ぶりの休憩を取った。 標高は700m近くなっている。ここまで来ると、道端にはまだ雪が解け残っており、そこにキツネのものと思しき足跡が連なっている。4本指の跡が点々と続くので、辺りにはいないかと見回しながら登っていたが、とうとう摩周湖まで、一匹のキツネとも出会う事はなかった。屈斜路の湖面はますます青く、空は晴れ渡っている。冬なので空気が澄んでおり、余計に眺望がよいのだろう。所々に浮かんだ雲は地上にその影を落とし、その部分だけ森林の色が他よりも濃くなっている。 それにしても、いつまでも続く坂道だ。1km毎に立っている例の距離標は、既に「屈斜路湖から27km」となっている。道はいよいよ凍結しており、路面全体が真っ白になっている箇所もあった。植生は熊笹と白樺ばかりで、下から見上げると、葉を落とした白樺のなめらかな木肌の向こうに青い空が広がって、何とも言えない美しさである。 路肩の斜面には、雪崩を防ぐ為の鉄柵が併走しているが、ちゃんと視界は妨げないよう、高さを工夫してあるので問題ない。 10時を過ぎると、下界の方から車のエンジン音が聞こえ始めた。とうとう通行規制が解除され、一般車の乗り入れが始まったに違いない。彼奴らに負けてなるものか、何としてでも先に展望台に着かなくてはと意気込んだが、とうとう10時17分、最初の自動車に追い越されてしまった。何とも無念であったが、いよいよ景色は開け、自分がかなりの標高にいる事が分かる。屈斜路湖より29kmの看板も過ぎた。間もなく摩周湖に到着するであろう事は地図を見なくとも分かる。 10時24分、ようやく摩周湖第三展望台に到着した。 長かった。実に10km以上の道程、それも大変な上り坂を歩く事約2時間半、遂に僕は摩周湖に着いたのである。摩周湖は典型的な火口湖なので、稜線は道路面よりもまだ高いところにある。そこに付けられた階段を、半ば駆け上るようにして登ると、とうとうその眺望がヴェールを脱いだ。 「神様にだって、こんな景色は作れるはずがない。」 僕は、神や仏というものを信用していないし、この世は神によって創られたという考えなど糞喰らえと思っているが、もし万が一、事実としてこの世を神が創ったのだとしても、そいつはこんな見事な景色を創る事などできないだろうなと思ったのだった。それほど、この景色は見事であった。 |
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一般にカルデラ湖は、周囲から流れ込む川が無く、また人家も少ない場所に位置するので透明度が高い。日本有数の透明度を誇る支笏湖、洞爺湖、 第三展望台と湖を隔てて聳えるのがカムイヌプリで、やはりアイヌの人々の信仰対象であった事が伺える名である。カムイはアイヌ語で神、ヌプリは山を表す。この山は摩周カルデラを作った山が活動を停止した後にできた、いわば子供の火山である。その形たるや、カルデラの尾根から無理矢理に出てきたので火口の形状が非常に 遙か北方に目をやって望まれるのが知床連山で、斜里岳の特徴的な山容も見受けられる。蒼き嶺々は山頂や尾根に白き雪化粧を纏い、北国の早い冬の訪れを告げている。湖中央部のカムイシュ島は実に端正な趣きで、摩周の湖面全体のバランスをキュッと整えているかのようである。 この美しさは、見る者の心を洗うとかそんな生易しいものでなく、寧ろ、地球が誕生してからの数十億年という悠久の歴史の中に自分が生かされている事を、強烈に体得させてくれる。尤も、見る者がそういう気持ちで訴えかけていかないと、風景は黙したまま、何一つ教えてくれないどころか、語りかけても突っ慳貪としているが。 よく「観光名所と言われる所は、旅慣れてくるに連れて、行っても面白くなくなる。ああいうのは、旅に素人な者が行く所だ」というような言葉を聞くが、僕はそうは思わない。有名観光地には、やはりその土地が有名観光地にのし上がった厳然たる理由があり、それに触れられれば、決して有名観光地もつまらないものなどではないと思うのだ。僕だって、本格的に日本各地を歩き始めてまだ2年、旅慣れているなどとは言えないからこう思うのかも知れないが、有名観光地だから下らない、まだ観光地として開発されていないから面白い、というレッテル付けは、僕にはナンセンスなように思えてならない。 |
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アスファルトにキツネの足跡が付いている。先程はアスファルトに積もった雪の上だったが、今度は、アスファルトそのものに足跡が連なっているのだ。恐らくは、この道が舗装された日の夜などに、まだアスファルトが固まりきらないうちからキツネがその上を歩いてしまい、こうして足跡が残ったのだろう。何とも頬笑ましい事をやってくれるキツネである。 しばらく歩くと、道の横手に等間隔で鉄骨が並び立つようになった。同じ形、同じ高さの鉄骨である。電線の支柱となっている訳でもなければ、フェンスが張られている訳でもない。一体何の為の鉄骨なのかと疑問に思っているうち、その鉄骨によじ登って間に鉄板を渡している作業員さんたちがいたので、謎が解けた。これは冬季の防風雪柵なのだ。この道は摩周湖の外輪山の斜面に付けられているから、冬季は強風や横殴りの雪、また春先には雪崩の心配がある。それを防ぐ為に、道の両サイドに鉄製の柵を取り付けているのだ。夏は無用となる上、そのままでは道から見える景観を隠してしまうので、雪が積もる時期の前に横板の鉄板を取り付け、雪解けの時期にまた横板を外すのであろう。これは鉄道用線路の両サイドにも時々立っており、厳しい風雪から交通を守る為に役立っている。 屈斜路湖から33kmの看板を過ぎた辺りで、ようやく冬季交通規制の区間が終わった。川湯温泉駅を出てしばらく行った所にあった車輌進入禁止柵の事を覚えておられるだろうか?あそこから実に12.2kmの区間が、冬季は16時〜10時まで通行止めになるのである。 |
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さて、ここまで 千々に肝胆を砕いた結果、僕が取った方法は……ヒッチハイクであった。 これ以外に方法はない。まさか、麓からタクシーを呼ぶ訳にもいかないし、摩周湖から麓へ向かうバスのダイヤだって浮世離れしている事は言うまでもないだろう。だとすれば、これが最高且つ乾坤一擲の方法だったのだ。 ヒッチハイクとは言っても、別に前々からやろうと思って準備していた訳でもないので、行き先を書く為のスケッチブックも持っていない。しかし、ここは北の大地・北海道。この雄大なる大地の如き心の広い人物がおられるに違いない!と、根拠があるのか無いのか分からない期待を胸に、摩周湖第一展望台の駐車場から数十メートルの場所に立って、ヒッチハイクを開始した。 何と言っても、恥ずかしさが拭えない。また、妙な奴らに乗せられてしまい、身ぐるみ剥がれないとも限らない。 ……などと心配する間もなく、ヒッチハイクを始めてから僅か数分、6台目の車にしてヒッチハイク成功!いやはや、今から考えても夢のようであった。 ところが、運転席に座っているのは、スキンヘッドにサングラスを掛け、萌葱色の作務衣のような服を着た50代くらいの男性である。僕は一瞬、これはマズイ事になったのではないかと怯んだ。 しかし、話してみれば何とこの方、曹洞宗寺院の副住職様だったのである。人は見かけで判断してはならぬと言うが、身を以てそれを思い知った。我ながら、真に失礼な話である。 しかし、話はここからなのだ。「麓の摩周駅まで送って下さいますか?」という僕に対し、この方は「結局何処に行きたいの?」と訊いて下さり、「釧路駅です」という僕に、「じゃあ、釧路駅まで乗っけて行ってあげるよ」と仰有って下さったのだ。摩周湖から釧路駅までは実に80km以上もある。世の中にもし生き仏が 車は、緩い坂道を下って摩周湖を後にする。周囲は草原で、丘の稜線に防雪林が並木となって植えられている。日陰でもないのに草原の一部が暗くなっているのは、雲の影であろう。返り見れば、もう摩周湖が遙か後方に遠ざかっている。やはり、自動車は文明の利器に違いないと見せつけられた。 弟子屈の市街に入ったところで昼食の為に休憩。無論、僕も腹ペコだったので、御馳走を頂くという幸運に与った。ただ、ここで僕はイクラ丼セットを奢って頂く事になる。これには訳があり、「この際なんだから、好きな物食べなさい」と仰有って下さったのは事実だが、僕はまだこの時、飯代くらい自分で払おうという気だったので、よし、それならば折角北海道に来たのだからと、イクラ丼を注文した次第である。 この副住職様は、ご詠歌の先生としても活躍しておられ、京都にもその関係でよく来られるとの由。そんな話で盛り上がりながら、一人旅では絶対に入れないような純和風の料亭での昼食を済ませた。 さて、釧路への道を選ぶに当たって、副住職様は一つの提案をして下さった。「丹頂を見た事がある?」 僕は今まで、夏場にしか北海道を訪れた事がない。JR北海道を完乗した「北への大志」も、9月の旅であった。 そんな訳で車は転針、鶴居村を経由して釧路に向かうルートに変更して下さったのだ。もう、あまりにも親切にして頂き過ぎて、感覚が麻痺してきたような気さえする。 14時半、鶴居村着。辺りには牧場が目立ち始め、赤い屋根の厩舎や背の高いサイロが点々としている。 車を降りたのは、その名も鶴見台という場所。鶴見『台』とは言うものの、特に丘陵地であるという事ではなく、位置的にはどこかの家の裏庭である。裏庭とは言っても、内地のそれとは一線を画した広さではあり、ひたすらにだだっ広い地面に、餌でも撒いてあるのであろう、鶴が4、50羽も |
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再び車に乗せて頂き、次に向かったのは釧路湿原の釧路市湿原展望台だ。ここには立派な展望台の建物もあり、団体などでも釧路湿原を眺められるようになってはいたが、幸い僕たちが訪れた時はもう15時を回っていたので観光客の姿も疎らであり、ゆっくりと湿原を堪能できた。 僕は先述の「北への大志」で、釧路湿原駅にて途中下車した事があり、その際に細岡展望台大観峰より湿原を眺めた経験がある。しかし、地図で見て頂ければお解りのように、釧網本線は湿原の東側の山裾を縫うようにして走っており、細岡展望台も東側から湿原を望む格好となる。ところが、今回立ち寄った展望台は鶴居村の南に位置するから、反対に西側から湿原を望むのだ。 同じ湿原だという事は頭では分かっているのだが、どうにも納得がいかない程違って見える。東側からは湿原のバックに、雄阿寒岳・雌阿寒岳をはじめとする阿寒の山々、もう少し左にはウコタキヌプリを最高峰とする白糠丘陵の山々が重畳と連なり、バロックの重々しい調べのような印象を受ける。 而るにこちらからは、山と言えば釧路湿原の東端を成す 住職様にはこの後、釧路駅前まで送り届けて頂いた。全く、感謝の言葉もない。尚、この方とは今でも時々文通をしており、僕がデジカメとパソコンの話をしたのに刺激されて、動物たちや風景の写真を撮るという趣味が加わったそうで、丹頂、エゾジカ、キタキツネ、或いは北の大地の朝焼けなどの美しい写真を送って頂いている。 |
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既にして日が落ちた道東だが、僕にはまだ行きたい場所がある。まずは石川啄木の歌や遺品などを多数展示している港文館へ。ここには、北への大志でも来たのだが、時間不足で殆ど何も見られなかった。ただ「外国船が低く浮かべり」を下の句とする啄木の句が印象に残り、今度来た時には必ず上の句も覚えて帰ろうと思っていたし、困窮極まりながらも美しく生き抜いた歌人・啄木が好きである。 しかし入ってみると、嘱託職員のおかーさんがもう戸締まりの準備をしておられる。僕の姿を認めて、おかーさんは「まだ閉めませんから、どうぞごゆっくり御覧になって下さい」と言ってくれたが、既に二階の一部は照明も落とされている。 かと言って、あの歌の正体くらい掴みたい。壁掛けの額に入れられた歌を目で追っていくと、照明が再び点いた。申し訳ない事だと思いながらもご厚意に甘え、美しいペン字で描かれた一人百首の中に、ようやくあの歌を見付ける。「波もなき二月の海に 白塗りの外国船が低く浮かべり」であった。 |
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港文館からは釧路川もよく見える。皎々と灯る街灯の下を、啄木が一人で歩いている。物憂げな表情で、うつむき加減に。尤も、それは啄木が沈んだ気持ちだからという訳でなく、人生について黙考しているからに違いない。ふと足を止めて顔を上げた啄木と目があった。反射的に会釈したが、向こうは分からなかった様子だ。何の揺るぎもなく、またしずしずと歩き始める。倉庫と倉庫の間の細い路地に、啄木の幻影は消えた。 しらしらと氷かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな わざわざ閉館時刻を遅らせてくれたおかーさんに礼を言い、ところで、と話を切り出した。港文館の近くに、釧路地ビール館というのがあるのだが、前回来た時は閉館中だった。それで今回こそはと思っているのに、いつになっても、一向に灯りが点く気配すらない。おかーさんに依れば、普段は開いているそうなのだが、今日はどう見ても開店する様子はない。 折角、今日の夕食は地ビールで少しだけ豪勢にと思っていたのに、気勢を削がれてしまった。僕は地ビールが大好きという程でもないが、土地土地で微妙に異なる製法、そして全く違った原料・水を用いて作られるビールそのものに興味があるのだ。市販品との味の違いなどは二の次である。尤も、これは僕が極度に味覚オンチである事の言い訳なのだが……。 それでも、出される肴の味は、やはり地方に行って食べるのが美味い。やはり鮮度が違うから、素人の舌にも味の違いは歴然としている。僕は、地ビールと市販品の区別を付ける自信はないが、獲れたての肴と市販品の区別なら付けてみせる自信がある。ただ、これは誰にでもできる事のようにも思うのだが。 さて、今夜はどこで食おうかと思案し始めた僕に、おかーさんは一緒に食べていかないかと仰有って下さった。今日は、本当に親切な方とよく出会う日である。おかーさんはこれまでにも、港文館に来た貧乏旅行の学生と夕食を共にされた事が何度かあるそうで、僕もお言葉に甘える事にした。 港文館を施錠し、数分歩くと、 おかーさんと同じ「茶そば」を注文したのだが、メニューに「かしわぬき」というのが並んでいる。関西でカシワと言えば鶏肉の事なので、僕は何のことだか分からない。おかーさんに訊いてみると、これはツユだけのソバの事だという。という事は「かしわ」とは麺の事であろう。僕などは、ソバから麺を取れば何も残らないじゃないか、と言いたくなるが、この店はツユだけでも勝負しようと考えているらしい。こんなメニューは初めて見た。 また、OL風の数人組が店に入って来るなり「ああ、こわいこわい」と言う。これも僕が不思議そうな顔をしていると、おかーさんが「こわい」は「疲れた」という意味だと教えて下さった。 上品な店にしては量が多く、僕も満足であった。茶そばというだけに、麺は緑色。抹茶の味や蕎麦の味はそれ程に引き立っていなかったが、ツユは確かに美味かった。 すっかり満腹になっておかーさんと別れ、僕は大きな花時計がある幣舞公園の脇の坂道を上り、釧路市生涯学習センターの最上階にやって来た。ここは市内が一望できる展望台になっていて、この時間なら釧路の夜景を楽しめる。 市立美術館自体が丘の上に立地している上、10階なので相当に眺めがよい。この9月26日、またもや釧路・十勝沖を震源地とする地震が起き、この建物もその被害の改修中だったが、展望室は損傷なかったらしい。 輝くネオンサイン、ビルの明かり、流れるテールランプをぼんやりと眺めながら、僕は再び、この旅の終わりについて考え始めた。この旅が終われば、それは則ち元あった生活への復帰を意味する。その心構えを為さねばならない。僕は既に、今後の身の振り方を考えてはいたものの、帰るタイミングを作れずにいた。いつまで北海道をぶらついているのか、今日でもう4日目である。 大学では既に文化祭が終わっただろう。僕は文化祭の間だけ抜け出すつもりであったが、糸が切れた凧のように、どこまでも当て 夜の釧路市街を見つめて、ようやく僕はこの旅の終わりを自覚した。よし、今夜の夜行で帰ろう。そう思うと、急に心が軽くなった。旅は僕を現実世界から隔離したが、僕は現実世界が嫌いで逃亡してきた訳でもないのだ。 周りに人は居なかったが、僕はどこか人目を気にするように小さく拳を作って胸の前で握りしめた。 |
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