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いい日旅立ち

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4日目
川湯温泉駅〜摩周湖第三展望台〜ヒッチハイクの旅〜釧路湿原〜港文館〜


 深夜2時半、新得駅前に立つ。
 新得は地図で見れば分かるように北海道のほぼ中心に位置している街である。その上、国土地理院が行った計算に依れば、北海道の重心点が新得町内に位置する事も分かったという。その点は北緯43°28′21″、東経42°49′40″で、トムラウシ温泉の近くである。駅前にはそれを記念し、地元の小学生三年生(当時)が原案を出した、ヤジロベエのモニュメントが建っている。重心をイメージしたのであろうが、小学生なのに重心とヤジロベエの関係に目を付けるとは大したものである。
 因みに重心とは、平面図形に於いては、均質な平板である形を作った際、その板を一点だけで支える事のできる点である。つまりこの場合なら、板で北海道の形を切り抜いて指一本で支えようとした時、指をトムラウシ温泉付近に持ってくれば、丁度バランスよく支えられる。因みに、どんな図形にも重心は存在し、それはたった一つだけしかない。また、重心は図形の内部に存在するとは限らず、例えば日本全体としての重心は富山県沖の日本海である北緯37°31′03″、東経137°42′33″にある(この経緯度は世界測地系による)。尚、この重心については、国土交通省国土地理院のHPに詳しいので、是非御覧頂きたい。
 また、家庭教師の性を出してもう少し語っておくと、三角形の重心は3中線の交点(中線とは、ある頂点から向かい合う辺の中点に引いた直線)、正方形・長方形・菱形・平行四辺形なら対角線の交点となる(これら以外の四角形では当てはまらない)。
 だからヤジロベエと重心を結び付けるというのは非常に巧いのだが、さすがにこの着想は子供が考えたのではなく、先生か、或いは新得町の関係者が子供に重心について教える際に話したのかも知れない。さすがに、小学三年生にこの発想は無理ではないかという気がする。
塘路駅に到着した列車
 昨夜釧路から乗った夜行特急まりもをここで下車し、反対方面、つまり釧路に戻るまりもに乗車する為である。宿代を浮かす為に、まりも二本を一夜のうちに乗り継いだのであった。シーズンオフなのでさしたる混雑でもなく、新得から自由席に乗っても座る事ができ、釧路まで再び熟睡のうちに過ごした。

 夢現(ゆめうつつ)のまま釧網本線網走行きに乗り換える。しかし、車窓に広がり始めた釧路湿原に眠気を吹き飛ばされた。塘路では飼われているエゾジカが干し草を食んでおり、茅沼では数羽の丹頂も見る事ができた。茅沼は丹頂が来る駅として有名である。
釧路湿原の朝焼け
 また、標茶(しべちゃ)駅で対向待ちの為の数分間停車でホームに降りてみると、「標津線起点」と書かれた標柱がホームに立っている。そう、ここ、標茶駅は昭和62年まで、標津線というローカル線の分岐駅であった。標津線は、この標茶駅と根室本線の厚床駅を結び、途中の中標津からは根室標津までの支線も延びていたが、大の赤字路線であるから国鉄再建法に引っ掛かり、他の多くのローカル線と運命を共にした。今、標茶駅に残る標津線の遺構と言えば、非常に広い構内くらいしかないが、昨日通った厚床(あっとこ)駅にも、やはり駅には碑が建っていたし、その歴史が忘れ去られる事はまだまだ先だろうと感じた。
朝の標茶駅構内
 さて今日は、摩周湖に行ってみようと思うのだが、バスの時間が合わない。あったとしても、摩周湖滞在時間30分では、感動を味わうどころではない。列車の中で、僕は地図や時刻表を捻くり回しながら、何とかして摩周湖に行ってやろうと画策したのだが、どうにもならなかった。
 夏期ならば、摩周駅などでレンタサイクルが営業しており、それを利用できるし、レンタカーもある。しかし、冬場は全てが休止となるのだ。バスにしても、運行期間が夏季のみに限定されている。後で知った事だが、これは摩周湖への道が、10月から4月までは自動車が10〜16時までしか通行できないように規制されていたのだ。これでは、バスも無いはずである。
いよいよ、川湯温泉駅に到着
 運転士さんも僕の話を聞いて下さり、摩周駅などでは「摩周湖まで行きたいという事なので、期間外という事は承知だが自転車を出してもらう訳にはいかないか」とまで頼んで下さったが、OKはもらえなかった。
 やるだけの事はやった。それらが全てダメだったのなら、残された方法は一つである。我が身一つで摩周湖まで歩いてやろうではないか。

 摩周湖には、川湯温泉駅の方が近い。そこから、曲がりに曲がった山道を登る事目測10km以上で摩周湖の第三展望台に着くようである。バスも自転車も無い以上、これしかないだろう。
川湯温泉液正面図
 僕は、旅先で歩くのが大好きであるし、重い荷物であっても大概の距離なら歩いてみせる自信がある。しかし今回は、さしもの僕も懸念を感じ、摩周湖より行路が平坦な屈斜路湖にしておこうかとも思ったのだが、如何せん距離が長い。そしてやはり、摩周湖の魅力は僕のそんな懸念をも打ち破らせた。まさかこの時世、いくら酷くても道路で遭難する事はあるまい。ここまできて辞めるのは情けない。行くしかない。
 川湯温泉駅で運転士さんに見送られて下車し、シャケを捕らえた熊の木彫りが置かれたホームに降り立つ。列車が行ってしまい、屈斜路方面へのバスが直後に発車すれば、辺りは深閑としてしまった。
 北の大地の無人駅に一人きり。なかなか良いものである。川湯温泉駅には足湯が併設されており、運転士さんには「足湯に浸かってゆっくりしてから出発するといい」と言われていたが、これから10数キロを歩かんとする身には、そんな悠長な事をしている心の余裕がなかった。しばらくの間、駅でもう一度予定を確認し、いざ、冬の摩周湖へと歩き始めたのであった。



 川湯温泉には、その名の通り温泉が湧き出しているのだが、その熱源が、駅前に聳える硫黄山(アトサヌプリ)である。川湯温泉駅に着く前から、列車内にどうも特異な臭気が漂ってくるなと思っていたら、当にこの山のせいなのであった。無論の事、硫黄山は活火山であり、この日ももくもくと噴煙を噴き上げていた。しかし、大爆発するタイプの火山ではないようで、小さな噴火を短い周期で繰り返すようであった。
車の進入禁止柵を過ぎる
 駅の数百メートル南にある交差点で左折し、踏切を渡ると、いよいよ摩周湖への長き山道が始まる。道の脇に『道道52号線/屈斜路摩周湖畔線』『屈斜路から20km』という看板が立っていた。因みに『道道』とは、県道や府道の仲間、つまり北海道が管理する道路の事である。
 現在の時刻は8時過ぎ。10時までは、絶対に一般車が通れない道である。車輌の進入を遮断する為に設けられた車道を遮る柵を越え、僕はこの無謀な挑戦の火蓋を切って落とした。無事に摩周湖まで自力で辿り着き、そして帰って来られるのかという危惧は胸にあったが、しかし一歩ずつ、僕は前方を立ち塞ぐ岩壁の如きカムイヌプリの火口湖へと挑んでいった。
ようやく、長い直線道路を歩ききった
 初っぱなは、ひたすらに長い直線道路から始まった。まだ勾配もさして急ではなく、周囲には人家は無論、人工物が道路以外何も見えないので、非常に単調だ。そんな中を一人で歩いていると、本当に前に進んでいるのかが分からなくなる。あまりに長い直線なので、進んでも進んでも、直線の末端部までの遠近感が殆ど変わらないのである。
 8時40分、漸く長い直線道路の末端まで来た。近くで工事をしているらしく、その騒音が響いているが、人気は全くない。振り返ってみると、既に硫黄山の6合目辺りの高さまで登っていた。白樺の幹が美しく、(とど)松の並木が、今歩いてきた長い直線に沿って数キロも延びているのは、北海道ならではの光景である。
 ここから、道は急坂・急曲線の連続となった。長かった前哨戦がようやく終わり、ここからが本番とでも言うべき地点である。半径25メートルなどという、大型バスなどが通行できるのかと心配になるような急カーブもあった。大して寒い日ではなかったのが幸いだったが、そうであったとしても、これだけの荷物を持って歩き続けていれば、寒さは感じなかっただろう。
遂に、硫黄山の標高を越える
 9時、完全に硫黄山の山頂を越える高さに出た。路面は日当たりの悪い箇所で真っ白に凍結しており、本当に1時間後、ここを自動車が通行できるのかと心配になる。先程までは道に沿って繁っていた椴松や白樺の密度も疎になり、熊笹が目立つようになった。本州であれば、完全に高山帯の植生である。
 道は非常に急な坂道の連続で、しかもだんだんと標高が高くなって凍結面が多くなり、何度か足を滑らせそうになった。カムイヌプリの西側に付けられた道を登っているので、この時間になっても辺りは日陰ばかりなのだ。山に太陽を遮られて光が届かないので、凍結した地面も解けないのである。なるべく日の当たっている場所を選んで歩き、足を滑らせてしまうのを防いだ。
 もう少し登ると、阿寒の山々が遙かに望まれた。以前、釧路湿原の大観峰(釧網本線釧路湿原駅下車)から阿寒の山々を眺めた時の記憶があったので、あれが雄阿寒岳、あれが雌阿寒岳と阿寒富士……という風に、判別する事ができた。マリモで有名な阿寒湖は、この角度からだと雄阿寒岳の陰になって望まれない。また、視線を右手に移せば屈斜路湖の湖面が開けだした。川湯温泉の温泉旅館街も見え、その向こうには藻琴山や美幌峠が聳えている。
 カムイヌプリ山頂の標高は857mなので、地図から判断すれば、大体標高600mくらいまで登ってきたようだ。硫黄山は標高500m余しかないので、岩肌が露出した丸っこい山頂までも眼下に望まれ、手前には先程歩いてきた長い直線道路が、雑木林の中に細い細い切れ目を作ってこちらへ延びてきている。僕はここらで、川湯温泉駅を出て約1時間半ぶりの休憩を取った。

 標高は700m近くなっている。ここまで来ると、道端にはまだ雪が解け残っており、そこにキツネのものと思しき足跡が連なっている。4本指の跡が点々と続くので、辺りにはいないかと見回しながら登っていたが、とうとう摩周湖まで、一匹のキツネとも出会う事はなかった。屈斜路の湖面はますます青く、空は晴れ渡っている。冬なので空気が澄んでおり、余計に眺望がよいのだろう。所々に浮かんだ雲は地上にその影を落とし、その部分だけ森林の色が他よりも濃くなっている。
 それにしても、いつまでも続く坂道だ。1km毎に立っている例の距離標は、既に「屈斜路湖から27km」となっている。道はいよいよ凍結しており、路面全体が真っ白になっている箇所もあった。植生は熊笹と白樺ばかりで、下から見上げると、葉を落とした白樺のなめらかな木肌の向こうに青い空が広がって、何とも言えない美しさである。
 路肩の斜面には、雪崩を防ぐ為の鉄柵が併走しているが、ちゃんと視界は妨げないよう、高さを工夫してあるので問題ない。
 10時を過ぎると、下界の方から車のエンジン音が聞こえ始めた。とうとう通行規制が解除され、一般車の乗り入れが始まったに違いない。彼奴らに負けてなるものか、何としてでも先に展望台に着かなくてはと意気込んだが、とうとう10時17分、最初の自動車に追い越されてしまった。何とも無念であったが、いよいよ景色は開け、自分がかなりの標高にいる事が分かる。屈斜路湖より29kmの看板も過ぎた。間もなく摩周湖に到着するであろう事は地図を見なくとも分かる。



 10時24分、ようやく摩周湖第三展望台に到着した。
 長かった。実に10km以上の道程、それも大変な上り坂を歩く事約2時間半、遂に僕は摩周湖に着いたのである。摩周湖は典型的な火口湖なので、稜線は道路面よりもまだ高いところにある。そこに付けられた階段を、半ば駆け上るようにして登ると、とうとうその眺望がヴェールを脱いだ。

「神様にだって、こんな景色は作れるはずがない。」
 僕は、神や仏というものを信用していないし、この世は神によって創られたという考えなど糞喰らえと思っているが、もし万が一、事実としてこの世を神が創ったのだとしても、そいつはこんな見事な景色を創る事などできないだろうなと思ったのだった。それほど、この景色は見事であった。
第三展望台より眺めた摩周湖
 尾根から一気に急角度で下る斜面には熊笹が覆い繁り、落葉樹が斜めになって生えている。所々にはうっすらとした雪が積もり、その斜面が向かう先には、喩えようもなく美しい摩周湖の湖面が広がっている。微かな細波一つとて無い水面はどこまでも澄み渡り、鏡の如き静けさを保っている。アイヌ民族にとって摩周湖は大切な信仰の地だったと聞くが、その理由は、この光景を見れば自ずと分かる事であろう。
「霧の摩周湖」という名もあるように、摩周湖は年間で百数十日以上も霧に閉ざされるそうで、それも摩周湖の威厳を高めているように思う。その昔、アイヌの人々にとってみれば、ほんの時々にしか見る事のできない摩周の風景がどんなにか神々しかった事であろうか。
知床連山も遙かに見えている
 深い紺碧の湖面は、実に尾根より300m以上も下方にある。柵があるので転がり落ちる心配はないが、万が一この斜面を転げ落ちたら、もはや止まる術など無く、湖面までどこまでも加速しながら落下すると思われた。
 摩周湖は地形学的に言えばカルデラ湖に分類されるが、これは火山が噴火した後、マグマ溜まり(火山の内部にあり、深い地底から湧き上がってきたマグマが噴火までの間、滞留しているところ)だった部分が空洞化して、また噴火の際のショックなどもあって山頂部分が崩れ落ち、大きな凹地となったところに、水が溜まったものである。似たものに火口湖があるが、こちらは、火口そのものに水が溜まったものであり、山頂部分が陥没しているか否かの違いである。
 一般にカルデラ湖は、周囲から流れ込む川が無く、また人家も少ない場所に位置するので透明度が高い。日本有数の透明度を誇る支笏湖、洞爺湖、倶多楽(くったら)湖、田沢湖などは、何れもカルデラ湖である。また、深度も大きい事が多く、田沢湖の深さは423.4mで日本一、支笏湖も360.1mで第二位となっている。
 第三展望台と湖を隔てて聳えるのがカムイヌプリで、やはりアイヌの人々の信仰対象であった事が伺える名である。カムイはアイヌ語で神、ヌプリは山を表す。この山は摩周カルデラを作った山が活動を停止した後にできた、いわば子供の火山である。その形たるや、カルデラの尾根から無理矢理に出てきたので火口の形状が非常に(いびつ)になっていて、火口周囲の高さも一定でない。
 遙か北方に目をやって望まれるのが知床連山で、斜里岳の特徴的な山容も見受けられる。蒼き嶺々は山頂や尾根に白き雪化粧を纏い、北国の早い冬の訪れを告げている。湖中央部のカムイシュ島は実に端正な趣きで、摩周の湖面全体のバランスをキュッと整えているかのようである。
 この美しさは、見る者の心を洗うとかそんな生易しいものでなく、寧ろ、地球が誕生してからの数十億年という悠久の歴史の中に自分が生かされている事を、強烈に体得させてくれる。尤も、見る者がそういう気持ちで訴えかけていかないと、風景は黙したまま、何一つ教えてくれないどころか、語りかけても突っ慳貪としているが。
 よく「観光名所と言われる所は、旅慣れてくるに連れて、行っても面白くなくなる。ああいうのは、旅に素人な者が行く所だ」というような言葉を聞くが、僕はそうは思わない。有名観光地には、やはりその土地が有名観光地にのし上がった厳然たる理由があり、それに触れられれば、決して有名観光地もつまらないものなどではないと思うのだ。僕だって、本格的に日本各地を歩き始めてまだ2年、旅慣れているなどとは言えないからこう思うのかも知れないが、有名観光地だから下らない、まだ観光地として開発されていないから面白い、というレッテル付けは、僕にはナンセンスなように思えてならない。
屈斜路湖もよく見える
 30分程第三展望台からの景色に見とれた後、次なる目的地、摩周湖第一展望台に向かう。第一展望台までは約3km。それも、尾根づたいの平坦な道なので歩きよい。荷物は重くても、こんな道ならばいくらでも歩く事ができる。
 右手には、屈斜路湖の湖面が広がっている。屈斜路湖には、中島というかなり大きな島が浮かんでおり、ここからでも望む事ができる。屈斜路から摩周を見ようとしても、外輪山に阻まれて見えないが、こちらからは一望なのだ。僕は川湯温泉駅で、屈斜路に行くか摩周に行くかを散々悩んだが、結果的には期せずして双方の湖を堪能できたのである。
 アスファルトにキツネの足跡が付いている。先程はアスファルトに積もった雪の上だったが、今度は、アスファルトそのものに足跡が連なっているのだ。恐らくは、この道が舗装された日の夜などに、まだアスファルトが固まりきらないうちからキツネがその上を歩いてしまい、こうして足跡が残ったのだろう。何とも頬笑ましい事をやってくれるキツネである。
 しばらく歩くと、道の横手に等間隔で鉄骨が並び立つようになった。同じ形、同じ高さの鉄骨である。電線の支柱となっている訳でもなければ、フェンスが張られている訳でもない。一体何の為の鉄骨なのかと疑問に思っているうち、その鉄骨によじ登って間に鉄板を渡している作業員さんたちがいたので、謎が解けた。これは冬季の防風雪柵なのだ。この道は摩周湖の外輪山の斜面に付けられているから、冬季は強風や横殴りの雪、また春先には雪崩の心配がある。それを防ぐ為に、道の両サイドに鉄製の柵を取り付けているのだ。夏は無用となる上、そのままでは道から見える景観を隠してしまうので、雪が積もる時期の前に横板の鉄板を取り付け、雪解けの時期にまた横板を外すのであろう。これは鉄道用線路の両サイドにも時々立っており、厳しい風雪から交通を守る為に役立っている。

 屈斜路湖から33kmの看板を過ぎた辺りで、ようやく冬季交通規制の区間が終わった。川湯温泉駅を出てしばらく行った所にあった車輌進入禁止柵の事を覚えておられるだろうか?あそこから実に12.2kmの区間が、冬季は16時〜10時まで通行止めになるのである。
第一展望台までの道からも、時々摩周湖が見える
 その柵を越えると、間もなく第一展望台だ。尚、第三展望台の次に第一展望台に行って、第二展望台には行かないのかと思う方がおられるかも知れないが、実は第二展望台は現存しない。昔は、第三展望台と第一展望台の間にあったらしいのだが、展望台の規模が小さいのと、駐車が困難であるとの理由から廃止されたそうだ。僕はその名残がどこかにあるに違いないと、結構注意しながら歩いたのだが、遂に発見する事はできなかった。尚、摩周湖にはこの他に奥摩周展望台というのがあり、こちらは根室支庁と網走支庁の境である清里峠から道道150号線を経由して行く事ができる。第一・第三展望台に比べての知名度は非常に低く、全く違った角度から摩周湖を眺める事ができ、また第一・第三展望台よりも湖面までの高さが低いので、より雄大な景色が眺められるとの評である。但し、かなりの山奥に入り込まねばならないので、交通手段は自動車に限られそうである。
第一展望台から眺めた摩周湖
 第一展望台には、土産物屋やレストランを併設した如何にも何処にでもありそうな休憩舎が建っている。これでは興醒め甚だしいので、立ち寄らずに湖畔に出る。
 第三展望台とは異なる角度で眺められたのが新鮮だったが、僕としては第三展望台から眺めた景色の方が美しいように感じられた。しかし、真正面に知床連山を望めるというのは見事で、カムイヌプリの歪な形状もより良く見て取れる。300m余の落差を成す斜面に、浮雲の影が落ち、そこだけ緑が濃くなって夏の常緑樹林のようだ。足下の斜面は益々急で、上から見ていると60°くらいあるように見えてしまう。そんなにない事は分かっているのだが、上から見る限り、もし「この斜面は75°あります」と尤もらしく説明されれば、信じないとも限らない。
 さて、ここまで()は来たものの、さて、ここからどうしたものか。時刻は12時半を少し回ったが、第一展望台の最寄り駅である摩周駅を出る下り列車 (釧路行き) が13時43分発なのだ。ここから摩周駅までの距離は10km。荷物さえ持っていなければ間に合う距離であるが、如何せん我が携えし荷物の総重量は16kg。しかも釧網本線の昼間ダイヤは浮世離れしており、この次の釧路行きは17時6分発というのだから万事が休する。



 千々に肝胆を砕いた結果、僕が取った方法は……ヒッチハイクであった。
 これ以外に方法はない。まさか、麓からタクシーを呼ぶ訳にもいかないし、摩周湖から麓へ向かうバスのダイヤだって浮世離れしている事は言うまでもないだろう。だとすれば、これが最高且つ乾坤一擲の方法だったのだ。
 ヒッチハイクとは言っても、別に前々からやろうと思って準備していた訳でもないので、行き先を書く為のスケッチブックも持っていない。しかし、ここは北の大地・北海道。この雄大なる大地の如き心の広い人物がおられるに違いない!と、根拠があるのか無いのか分からない期待を胸に、摩周湖第一展望台の駐車場から数十メートルの場所に立って、ヒッチハイクを開始した。
 何と言っても、恥ずかしさが拭えない。また、妙な奴らに乗せられてしまい、身ぐるみ剥がれないとも限らない。
……などと心配する間もなく、ヒッチハイクを始めてから僅か数分、6台目の車にしてヒッチハイク成功!いやはや、今から考えても夢のようであった。
 ところが、運転席に座っているのは、スキンヘッドにサングラスを掛け、萌葱色の作務衣のような服を着た50代くらいの男性である。僕は一瞬、これはマズイ事になったのではないかと怯んだ。
 しかし、話してみれば何とこの方、曹洞宗寺院の副住職様だったのである。人は見かけで判断してはならぬと言うが、身を以てそれを思い知った。我ながら、真に失礼な話である。
 しかし、話はここからなのだ。「麓の摩周駅まで送って下さいますか?」という僕に対し、この方は「結局何処に行きたいの?」と訊いて下さり、「釧路駅です」という僕に、「じゃあ、釧路駅まで乗っけて行ってあげるよ」と仰有って下さったのだ。摩周湖から釧路駅までは実に80km以上もある。世の中にもし生き仏が(ましま)すならば、こういう方の事を言うのではなかろうかと思う。

 車は、緩い坂道を下って摩周湖を後にする。周囲は草原で、丘の稜線に防雪林が並木となって植えられている。日陰でもないのに草原の一部が暗くなっているのは、雲の影であろう。返り見れば、もう摩周湖が遙か後方に遠ざかっている。やはり、自動車は文明の利器に違いないと見せつけられた。
 弟子屈の市街に入ったところで昼食の為に休憩。無論、僕も腹ペコだったので、御馳走を頂くという幸運に与った。ただ、ここで僕はイクラ丼セットを奢って頂く事になる。これには訳があり、「この際なんだから、好きな物食べなさい」と仰有って下さったのは事実だが、僕はまだこの時、飯代くらい自分で払おうという気だったので、よし、それならば折角北海道に来たのだからと、イクラ丼を注文した次第である。
 この副住職様は、ご詠歌の先生としても活躍しておられ、京都にもその関係でよく来られるとの由。そんな話で盛り上がりながら、一人旅では絶対に入れないような純和風の料亭での昼食を済ませた。
 さて、釧路への道を選ぶに当たって、副住職様は一つの提案をして下さった。「丹頂を見た事がある?」
 僕は今まで、夏場にしか北海道を訪れた事がない。JR北海道を完乗した「北への大志」も、9月の旅であった。
 そんな訳で車は転針、鶴居村を経由して釧路に向かうルートに変更して下さったのだ。もう、あまりにも親切にして頂き過ぎて、感覚が麻痺してきたような気さえする。

 14時半、鶴居村着。辺りには牧場が目立ち始め、赤い屋根の厩舎や背の高いサイロが点々としている。
 車を降りたのは、その名も鶴見台という場所。鶴見『台』とは言うものの、特に丘陵地であるという事ではなく、位置的にはどこかの家の裏庭である。裏庭とは言っても、内地のそれとは一線を画した広さではあり、ひたすらにだだっ広い地面に、餌でも撒いてあるのであろう、鶴が4、50羽も(すだ)き、しきりに長い嘴で以て地面をコツコツと(ついば)んでいる。
鶴見台に集まった丹頂たち
 細長い足としなやかな首が何とも優美だ。寒さを求めて幾千kmもの道程を飛んで来るという殊勝なまでの生き様が、この(たおや)やかな肉体を作り上げるのであろうか。しかし、やっぱり丹頂の姿は飛翔中が良い。大きな三角形の翼とコンコルドを思わせる洗練された姿、むしろコンコルドの設計者こそこの丹頂の飛翔する姿をイメージしたのではないかと思われる程の無駄のない、どこまでも滑らかに地球の空を飛ぶ事を至上の目的として生まれてきたような肢体。また、先頭の一羽を基準に整然と並んで飛ぶ群れも良い。洗練された飛行機乗りが高性能のジェット機に乗っていても、あれだけの統率された一団を成す事は不可能ではないかとさえ思われる。
 再び車に乗せて頂き、次に向かったのは釧路湿原の釧路市湿原展望台だ。ここには立派な展望台の建物もあり、団体などでも釧路湿原を眺められるようになってはいたが、幸い僕たちが訪れた時はもう15時を回っていたので観光客の姿も疎らであり、ゆっくりと湿原を堪能できた。
 僕は先述の「北への大志」で、釧路湿原駅にて途中下車した事があり、その際に細岡展望台大観峰より湿原を眺めた経験がある。しかし、地図で見て頂ければお解りのように、釧網本線は湿原の東側の山裾を縫うようにして走っており、細岡展望台も東側から湿原を望む格好となる。ところが、今回立ち寄った展望台は鶴居村の南に位置するから、反対に西側から湿原を望むのだ。
 同じ湿原だという事は頭では分かっているのだが、どうにも納得がいかない程違って見える。東側からは湿原のバックに、雄阿寒岳・雌阿寒岳をはじめとする阿寒の山々、もう少し左にはウコタキヌプリを最高峰とする白糠丘陵の山々が重畳と連なり、バロックの重々しい調べのような印象を受ける。
 而るにこちらからは、山と言えば釧路湿原の東端を成す岩保木(いわぼっき)山 (標高は120mに過ぎない) をはじめとした低い峰々で、しかもこの山の向こうは根釧台地だから、それ以外に山並みなど見えない。反対から眺めているという事だけでなく、背景として湿原を取り巻く景色も、僕が受けた印象に作用しているに違いない。
 住職様にはこの後、釧路駅前まで送り届けて頂いた。全く、感謝の言葉もない。尚、この方とは今でも時々文通をしており、僕がデジカメとパソコンの話をしたのに刺激されて、動物たちや風景の写真を撮るという趣味が加わったそうで、丹頂、エゾジカ、キタキツネ、或いは北の大地の朝焼けなどの美しい写真を送って頂いている。


幣舞橋から見た、釧路川の夕暮れ
 さて、北の大地の夕暮れは早い。まだ16時だというのに、もう空は薄暮である。駅前通を釧路川に向かって歩いたが、沿岸の街灯がもう灯り、釧路川の川面に反射して揺らめいている。三日月が掛かり始めた空はだんだんと暗黒に飲まれはじめているが、西の水平線だけが太陽の輝きを未だ失わず、下から橙、黄色、紺青のグラデーションを描き、天頂へと連なっている。夕凪のせいか釧路川に波はなく、夕陽の色をそのままに反射して色付いている。
 僕は幣舞橋が好きだが、橋そのものが好きというのでなく、どちらかと言えばそこから眺める景色が好きと言った方が正しい。一日の終わりに一息つくには、ちょうど良い場所であった。

 既にして日が落ちた道東だが、僕にはまだ行きたい場所がある。まずは石川啄木の歌や遺品などを多数展示している港文館へ。ここには、北への大志でも来たのだが、時間不足で殆ど何も見られなかった。ただ「外国船が低く浮かべり」を下の句とする啄木の句が印象に残り、今度来た時には必ず上の句も覚えて帰ろうと思っていたし、困窮極まりながらも美しく生き抜いた歌人・啄木が好きである。
 しかし入ってみると、嘱託職員のおかーさんがもう戸締まりの準備をしておられる。僕の姿を認めて、おかーさんは「まだ閉めませんから、どうぞごゆっくり御覧になって下さい」と言ってくれたが、既に二階の一部は照明も落とされている。
 かと言って、あの歌の正体くらい掴みたい。壁掛けの額に入れられた歌を目で追っていくと、照明が再び点いた。申し訳ない事だと思いながらもご厚意に甘え、美しいペン字で描かれた一人百首の中に、ようやくあの歌を見付ける。「波もなき二月の海に 白塗りの外国船が低く浮かべり」であった。
石川啄木の句と画
 愁いを含んだ人生観、不安に駆られて生きてゆく事の辛さを彷彿とさせるものが多く、同感を覚えるものも多々あった。しかし一方で、「小奴といひし女のやはらかき耳朶(みみたぶ)なども忘れがたかり」などという、艶めかしい歌も残している。
 飾り気のない、しかし深く人の心に訴えてくる、啄木の歌は僕の胸の内を揺るがした。そうだ、いつまでもこうして旅している訳にはいかない、そろそろ帰るべき刻ではないか……。
 啄木が釧路駅に降り立ったのは、明治41年1月21日、雪の降る夜だった。そこで詠んだのがかの有名な「さいはての駅に下り立ち雪あかりさびしき町にあゆみ入りにき」である。人間は誰もが、幾つもの重荷を背負って生きている。その重さは若干違えど、さして相違あるものではない気がする。ただ、それを外に出すか出さぬか、また、己で解決するかせぬかなのだ。
 啄木は1912年、数え27歳という若さで世を去る。しかし、これほどまでに後生に残る歌を創作した。雪の降る釧路を一人で歩く啄木の、黒い後ろ姿が目に浮かんでくるようだった。
 港文館からは釧路川もよく見える。皎々と灯る街灯の下を、啄木が一人で歩いている。物憂げな表情で、うつむき加減に。尤も、それは啄木が沈んだ気持ちだからという訳でなく、人生について黙考しているからに違いない。ふと足を止めて顔を上げた啄木と目があった。反射的に会釈したが、向こうは分からなかった様子だ。何の揺るぎもなく、またしずしずと歩き始める。倉庫と倉庫の間の細い路地に、啄木の幻影は消えた。

しらしらと氷かがやき千鳥なく釧路の海の冬の月かな

 わざわざ閉館時刻を遅らせてくれたおかーさんに礼を言い、ところで、と話を切り出した。港文館の近くに、釧路地ビール館というのがあるのだが、前回来た時は閉館中だった。それで今回こそはと思っているのに、いつになっても、一向に灯りが点く気配すらない。おかーさんに依れば、普段は開いているそうなのだが、今日はどう見ても開店する様子はない。
 折角、今日の夕食は地ビールで少しだけ豪勢にと思っていたのに、気勢を削がれてしまった。僕は地ビールが大好きという程でもないが、土地土地で微妙に異なる製法、そして全く違った原料・水を用いて作られるビールそのものに興味があるのだ。市販品との味の違いなどは二の次である。尤も、これは僕が極度に味覚オンチである事の言い訳なのだが……。
 それでも、出される肴の味は、やはり地方に行って食べるのが美味い。やはり鮮度が違うから、素人の舌にも味の違いは歴然としている。僕は、地ビールと市販品の区別を付ける自信はないが、獲れたての肴と市販品の区別なら付けてみせる自信がある。ただ、これは誰にでもできる事のようにも思うのだが。
 さて、今夜はどこで食おうかと思案し始めた僕に、おかーさんは一緒に食べていかないかと仰有って下さった。今日は、本当に親切な方とよく出会う日である。おかーさんはこれまでにも、港文館に来た貧乏旅行の学生と夕食を共にされた事が何度かあるそうで、僕もお言葉に甘える事にした。

 港文館を施錠し、数分歩くと、(あずま)屋という暖簾が掛かった、こぢんまりした店に着いた。ここは、天皇陛下も訪れた事で有名な (らしい) 蕎麦屋である「竹老園・総本家・東屋」の、幣舞分店なのだそうだ。この東屋は他にも31の分店を持つそうで、麺は釧路ならではの北海道産蕎麦粉使用、さすがは由緒ある釧路一の老舗蕎麦屋である。しかし、入ってみるとおかーさんと店の人は顔見知りで、何も気兼ねは要らない。高級な店は苦手な僕は、ほっとした。
 おかーさんと同じ「茶そば」を注文したのだが、メニューに「かしわぬき」というのが並んでいる。関西でカシワと言えば鶏肉の事なので、僕は何のことだか分からない。おかーさんに訊いてみると、これはツユだけのソバの事だという。という事は「かしわ」とは麺の事であろう。僕などは、ソバから麺を取れば何も残らないじゃないか、と言いたくなるが、この店はツユだけでも勝負しようと考えているらしい。こんなメニューは初めて見た。
 また、OL風の数人組が店に入って来るなり「ああ、こわいこわい」と言う。これも僕が不思議そうな顔をしていると、おかーさんが「こわい」は「疲れた」という意味だと教えて下さった。
 上品な店にしては量が多く、僕も満足であった。茶そばというだけに、麺は緑色。抹茶の味や蕎麦の味はそれ程に引き立っていなかったが、ツユは確かに美味かった。

 すっかり満腹になっておかーさんと別れ、僕は大きな花時計がある幣舞公園の脇の坂道を上り、釧路市生涯学習センターの最上階にやって来た。ここは市内が一望できる展望台になっていて、この時間なら釧路の夜景を楽しめる。
 市立美術館自体が丘の上に立地している上、10階なので相当に眺めがよい。この9月26日、またもや釧路・十勝沖を震源地とする地震が起き、この建物もその被害の改修中だったが、展望室は損傷なかったらしい。
 輝くネオンサイン、ビルの明かり、流れるテールランプをぼんやりと眺めながら、僕は再び、この旅の終わりについて考え始めた。この旅が終われば、それは則ち元あった生活への復帰を意味する。その心構えを為さねばならない。僕は既に、今後の身の振り方を考えてはいたものの、帰るタイミングを作れずにいた。いつまで北海道をぶらついているのか、今日でもう4日目である。
 大学では既に文化祭が終わっただろう。僕は文化祭の間だけ抜け出すつもりであったが、糸が切れた凧のように、どこまでも当て()なく彷徨い続けている。そろそろ終わりにすべきである。
 夜の釧路市街を見つめて、ようやく僕はこの旅の終わりを自覚した。よし、今夜の夜行で帰ろう。そう思うと、急に心が軽くなった。旅は僕を現実世界から隔離したが、僕は現実世界が嫌いで逃亡してきた訳でもないのだ。
 周りに人は居なかったが、僕はどこか人目を気にするように小さく拳を作って胸の前で握りしめた。

釧路駅と、駅前の動輪
 20時も過ぎ、既に気温は氷点下3度である。風が吹き抜ける大通りを歩き、駅の待合室に飛び込んだ。ここで、夕方に買っておいた釧路駅弁「鰯のほっかぶり鮨」を食した。これは美味い駅弁ベスト50の第36位に輝いた駅弁なのだが、どうも鰯の味付けが薄い。しかし、獲れたてを使っているだけあって歯ごたえが良いから、なかなか美味かった。北海道限定のサッポロクラシックラガービールと共に味わって、たまたまテレビでやっていた「八重山うた紀行」を見た。北の果てまで来て、南の果ての番組を見るとは奇異なものだが、数知れぬ八重山民謡についての知識を少し増やした。今夜の宿は昨夜と同じ、夜行特急まりもである。例によって乗り込むなり熟睡し、翌朝、終点の札幌まで一度も起きなかった。


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