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こんな景色があって良いものだろうか。 今の今まで、疲れに打ちのめされていた僕は、発狂しそうな程にその、目の前に広がる、何であろう、景色などとは気安く言えないかもしれない、情景も不適当な表現だ、とにかく、この世のものとは思えない美しさに心奪われた。 叫びにならない叫びが口を突いて、そこに吸い込まれていく。時間が止まった。 北海道・摩周湖、第三展望台。僕は動く事もできないまま、心底からの叫びを続けていた。 数日前まで、僕は様々に疲れ果てていた。端から見れば贅沢な疲れだったと回想するが、当の本人は本気で悩み、疲れていたのだから認めて頂くしかない。弱い人間だと思われるかも知れないが、もはや今となっては構わない。 僕が何を悩んでいたのかなどここに書くのは、何の関係も無い読者の皆様にとって迷惑千万であろうし、大体、これは紀行文なのだから趣旨に反する事甚だしく、一切書かないが、1年半お世話になった部を辞めるかどうか、またそれに付随する諸問題であった事だけは明かしておく。 悩み暮れていた僕に一条の光を差したのは、他ならぬ旅だった。旅こそが、僕をこの疲れ切った生活から救ってくれるに違いないと思ったのである。無論、今回の旅に出るにあたっては、自分の中でもそんな甘い考えを制する気持ちと、今のままではいけないから数日間は犠牲にする覚悟が必要だという考えが葛藤し、前日の夜まで悩みに悩んだ。それに、旅に出ようとする事に反対する面々もいた。「お前は現実から逃げているだけだ」と。 しかし全ては、事情を洗いざらい聞いてくれた親友の一声が決定打となった。 「旅に出て、悩むだけ悩んで来い。それで、もしお前に部活が必要なんだったら、その時は潔く頭を下げて部に戻ればいい。」 これで全ては決した。 僕はHPの掲示板と日記にその旨を書き込み、一緒にいた2人の親友にのみその決意を告げ、大学が文化祭に沸く中、一人北へと旅立つ事にしたのであった。時に、2003年11月23日の事であった。 今回ばかりは、事前に何の用意もしておらず、前日はその友人たちと2時過ぎまで飲んでいたが、5時前には起きて準備をした。2時間余りの睡眠時間だったが、頭は冴え渡り、気分は早くもあの、旅に出る前の独特に高揚した感じになりながらバイトを2件済ませ、京都駅に向かった。途中、城陽でのバイト先から駅に向かう途中で日が暮れたが、その夕焼けが何とも美しかった。 京都駅のみどりの窓口に並んだが、急な思いつきなので、何も先の事は考えていない。あまりにも急だったので、学割証明書を発行してくるのがやっとだった。これから数日間、予定が空いているという訳ではない。金も、どこまで保つか分からない。そんな事はしかし、何度となく考えた事だ。だが幾度考えても、結論は一つだった。 俺には旅が必要なのだ、ただそれだけである。 窓口氏の不手際で、発券に異様なまでの時間が掛かり、乗ろうとしていた寝台特急『日本海1号』は出てしまった。仕方ない。急に複雑な切符の注文をする俺が悪いのだ。今はそんな事でイライラする程、心の余裕もなかった。 18時25分、切符の注文から15分で、北海道への周遊券 (往復切符付き) と日本海1号の寝台特急券などを購入できた。計46650円の出費だったが、この旅における交通費の約90%を先払いした勘定になるから、そう高くはない。さらに改札前の券売機で敦賀までの自由席特急券を買ってから、威風堂々と京都駅0番線に向かった。 |
日本海1号ではなく、金沢行きの雷鳥41号に乗らなくてはならなくなったのは、先述の通り手際の悪い京都駅の窓口氏のせいだが、この列車は巧い具合に、先行する日本海1号を敦賀で追い抜かす。日本海は機関車が牽引する客車列車である為に、どうしても電車に比べて表定速度 (平均時速) が遅くなる。そこで、日本海は敦賀駅にて11分間という特急列車にしては長時間の停車を行い、その間に名古屋始発のしらさぎ13号と、京都を19分後に出る我が雷鳥41号に追い越されるのだ。 自由席は満席で、僕は指定席車輌のデッキに立っていた。手に持った携帯に充電器を繋いで洗面所のコンセントで充電しながら、気の置けないごく少数の友人たちだけにメールを送った。 「いつ帰るか分からんし、連絡途切れるかもしれんけど、必ず僕は、北の大地のどこかで元気にしています。迷惑もかけたし、かけるけど、しっかり自分を見つけてきます。まさに、いい日旅立ち。」 今回の旅の主題曲として、僕は谷村新司の「いい日旅立ち」を選んでいた。季節に少々の違いはあるが、行き先や心境は酷似しており、何度となく繰り返し再生して聴いた。 雷鳥に乗る為には別途、特急券を買わねばならず、予定より\1150の無駄遣いとなったが、今の僕にはものの数ではなかった。思い立った列車で旅立てるのだから本望である。 近江塩津で湖西線から北陸本線に入り、敦賀に着いたのは19時32分。京都で僕が乗り損ねた日本海1号は、向かいのホームで青い体を暫し休めていた。 |
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今回も眠らないのは同じだが、長旅になるかも知れない、その初めなので、ある程度は寝ておかなくてはならない。ともかく、ブルートレインに乗ったら編成の頭から尻まで歩いてみないと気が済まないから、自分の寝台に荷物を置くなり、車内探検に出掛けた。 日本海1号の編成を前から順に説明すると、牽引する機関車はEF81型交直両用電気機関車、そして12号車から1号車までの客車が続き、最後尾が電源・荷物車となっている。日本海1号は函館行きとなっているが、12号車から5号車までは途中の青森止まり。寝台の設備は、1号車が一人用A個室である他は、全て二段式B寝台となっていて、急に旅をしようと思い立った僕などは勿論B寝台 (3号車3番上段) の乗客である。 |
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まだ21時だというのに眠気に襲われたので、寝台に帰ってMDを聴きながら眠る事にしたが、あまりにすぐ眠ったらしく、何を聴いたのかすら憶えていない。恐らくここ数日の間に溜まった疲れが、旅に出られたという気の弛みと共にどっと押し寄せたのだろう。 人間というものは、眠っている間も神経をあちらこちらに向けて尖らせている。無論、起きている時程ではないにせよ、授業中寝ていて自分の名前を呼ばれれば何事も無かったかのように立ち上がれるのも (質問の内容に答えられるかは別として)、耳が寝ている間もきちんとその役割を果たしているからである。 体全体としても同じで、揺れる寝台車の中で眠れば、揺れているのが常態のようになっているから、停まって揺れなくなった時に目を覚ますものである。寝台車は良く眠れないという人の殆どがこれで、眠りそのものが浅い訳ではなく、停車駅の度に目を覚ますから、その分ノンレム睡眠の時間が短くなって、よく眠れなかったという感覚を催すのだ。 僕は寝台車であれ座席であれ駅のベンチであれ、眠ければ何処でも寝るし、一旦寝たらなかなか起きない。しかし、今回ばかりはそんな僕すらも起きてしまった。 ふと気が付けば、列車は止まっている。それも、ちょっと止まっていたくらいでは絶対に起きない僕が異変を感じているくらいだから、相当な時間停車していたのだろう。腕時計の夜光文字盤を見ると、まだ1時47分である。咄嗟に『事故か?』と思った。 僕の寝台は4人用開放型B寝台の上段である。下段は二つとも埋まっているが、もう一つの上段ベッドは空いているので、通路の屋根裏に当たる部分は荷物置き場となっているのだが、そこを一人で占領できていた。かなりのスペースだったので、だらしない性格の僕は散らかし放題である。 |
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眠気は一気に吹き飛び、僕は車掌室を訪ねた。勿論、文句を言う気など毛頭無い。元々僕の旅には旅程など無いのだから、別にこの列車が2時間遅れようが10時間遅れようが、JRがそれ相応の対応さえしてくれれば何も文句など無い。寧ろ、日頃はできない経験ができて嬉しくさえあるのだ。 車掌室はひっそりとしていた。時刻が時刻だけに、まだ客たちの多くはこの異変に気付かず眠っているのだろう。車掌さんに事情を伺った。 昨夜22時半頃に、柏崎駅 (今、立ち往生している柿崎駅から東に20km) 付近の踏切で自動車と普通列車の接触事故があり、復旧作業が行われているものの、復旧の目処は立っていないとの事。既に事故から4時間が経とうとしているのに目処すら立たないとはどういう事かとも思うが、腹立たしいどころか、もっと時間が掛かって欲しいと思う。小学生の時、大した雨でもないのに警報が出ていて、このままいけばその日丸一日学校が休みになるという朝の気分に似ているかも知れない。 しばらくは窓辺の椅子に座り、時折通りかかる人たちと車掌から聞いた情報を交換しながら動くのを待っていたが、2時半を過ぎても動かないので少し眠った。 3時55分、大阪方面行きは動き出したとの情報が入るも、対向する列車があれば気付くはずだが、そんな列車は見ていないところを考えると、大阪方面の列車が動いている様子はない。 4時21分になって、ようやく我が日本海1号が動き出した。遅れは時刻表などから分析するに、約4時間であろう。先述の通り、僕は4時間でも10時間でも、遅れれば遅れる程嬉しいと思っているから良いのだが、この時節、観光客などは少なく、多くのお客さんたちは急ぎの用であろうから、この遅れは大変だろうと思う。 下の寝台2つは、2人連れの若い女性である。車掌さんとの会話を盗み聞くと、どうやら羽後本荘まで行くようである。車掌さんとは至って穏やかに話していた二人組であったが、車掌さんが行った後に関西弁で「ふざけんな!4時間遅れって……」とボヤいた。それが本音であろう。 4時57分に来迎寺で運転停車。発車してすぐに、信濃川の長い鉄橋を渡る。まだ新潟市の河口まで80km以上あるのに、川幅は1km弱に達するのではと思う程であり、さすがは日本一の大河だと思う。道路橋の灯が川面に反射して、さざめく水の描く模様を映し出している。 次の前川までの間で、上りの寝台特急日本海2号とすれ違う。時刻表から計算すると、定時なら日本海2号はこの辺りを1時前には通過しているはずであり、向こうも4時間以上遅れているのだと知った。 前川の二つ先は長岡であり、ホームにはトワイライトエクスプレスカラーのEF81に牽かれた日本海4号が停車中であった。こちらの遅れは約2時間。乗っている客たちは、特急料金が払い戻されるかどうかの瀬戸際である。JRでは、特急や急行が2時間以上遅延した場合、その特急料金や急行料金を全額払い戻す規定となっている。 新津から羽越本線に入る。羽越本線は、単線区間と複線区間が短い区間で入り乱れている。複線区間では、少し遅れを取り戻すかと思うような走りを見せるが、すぐに単線区間に突入して対向待ちを喰らう。殆ど眠っていたから分からなかったが、先述の通り、長い時間停まっていると僕は目を覚ます訳で、それが何回かあったから、かなりの回数長時間停車を喰らったものと思われる。それなら、複線区間であんまり飛ばさずに走っても同じではないかと思うくらいだ。 |
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車掌室に行って無料で配布されたおにぎり2個とお茶をもらい、廊下の椅子に腰掛けて外を眺めながらの朝食を採った。先程、起きている人には車掌が回って配ったが、僕は熟睡していたようだ。サンクスに大量発注した様子で、袋の中にはおしぼりまで入っている。まだ食べていない駅弁もあって、朝から豪勢なお客に胃袋は驚いていたが、皆片付けてしまった。 しかし、有耶無耶の関付近の美しい海をこんな時間に見る事ができるのも、列車が遅れてくれたおかげである。定時なら象潟は4時半頃に通過する予定で、そうでなくても朝寝坊が大好きな僕には、とても起きられる時間帯ではない。第一そんな時間に目覚めても、この季節はまだ陽が明けていないから外は見られないであろう。全く、僕には幸運である。この区間を陽のあるうちに通ったのは、これが初めてであるし。 |
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太宰治が小説「津軽」の中で『風の街だねぇ』と描いた蟹田を過ぎ、素寒貧とした景色を走って新中小国信号所のだだっ広いヤードを抜ければ、青函トンネルは目前である。北海道を目指す長大な貨物列車が、我らのスーパー白鳥を待避している。差詰め、白鳥に道を譲る濱鴎といったところであろうか。しかし、体躯の大きさだけから考えれば、貨物列車の方が白鳥という気もする。 そろそろ、席を立って行かなければならない所がある。ドア上の電光掲示板に字幕で青函トンネルについてのウンチクが流れている下をいくつも潜り、先頭車両にやってきた。目的は、前面展望窓である。既に親子連れの先客がいたが、感じの良いお父さんで、僕にも場所を譲ってくれた。齧り付くように前かぶをしている子供は来年から小学校。初めての渡道だという事である。 中小国を過ぎると、列車は断続的に短いトンネルに入っては出る。青函トンネルまでに8本の短いトンネルがあるから、僕も初めて乗った時などは、その度に「これこそが青函トンネルか?」と思うなり、期待を裏切られてすぐに出る、という事を繰り返した。 8本のうちの一つは1kmを超える長さだから、乗客が最も間違えやすいトンネルだ。見ていると「これだね。」「ああ、入ったね。」と会話している人たちが周りに多くいたが、その会話も一段落しないうちにパッと周りが明るくなって、車内は「あら?違ったんだね」というような声が、そこかしこから聞こえてくる。 8つもあるから、狼少年よろしく、だんだんと「本当に青函トンネルに入るのか?」という気がしてくる。乗客の多くが面倒くさくなり窓から目を離し始める頃、9つ目に入るのが青函トンネルで、結果、乗客たちは待ち望んでいたはずの青函トンネルに入る瞬間を見逃してしまう。大抵の人は入った後暫くしてから「これが青函トンネルだったんだね」と気付く有様になる。 しかし、前面展望していればそんな心配もない。青函トンネルのポータルは、他のトンネルより遙かに重厚なので、見誤る心配がない。単音の短い汽笛をプァッと鳴らしながら、789系はその短いトンネルに入っては出る。初めは熱心に前方を見ていた子供もさすがに「まだなの?」とお父さんに訊き始めた。 |
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トンネルに入った瞬間に前面ガラスが、さっと真っ白に曇った。青函トンネルの中は湧水のせいで湿度が80%程度にも達するそうであるから、寒い外気に触れ続けてきたガラスが曇るのも無理はない。前面ガラスには手動のワイパーも付いており、それを動かして何度も曇りを拭うが、あっという間に真っ白になる。勿論、曇りが取れても、トンネルの闇の中で何が見えるという訳はないのであるけれど。 しかし、この速度感はなかなか味わえない。キロポストと腕時計を頼りに速度を計算すると、26秒で1キロを走ったから、約138km/h。確かに青函トンネル内の最高速度という事になっている140km/hに近い速度が出ていると分かり、満足な気分になる。 因みに、前面展望しなくても、入ったトンネルが青函トンネルかどうかを一発で見極める方法をお教えしよう。青函トンネルには、入口にも出口にも、緑色の蛍光灯のサインが点いており、トンネルの壁面に緑の光が流れたら、それが青函トンネルに入った証である。 因みに最深部には同じように青い蛍光灯が点けられており、やはり前面展望しなくても、海面下246mを走っている事が分かるようになっている。 一応、青函トンネルの概要を書いておくと、長さ53.85km、昭和60年3月10日に本坑貫通。大きく言えば先進導坑・作業坑・本坑の三本から成り、列車が通るのは本坑、湧水を流すのが先進導坑、万が一の為の避難経路として作業坑を用いる。本坑は高さ7.85m、幅9.7mの楕円形で、これは将来的に新幹線車輌が通行できる大きさである。最深部は海面下246mで、146mの海底よりさらに100m下。そんな海底にまで下りてゆく割に、最急勾配は12‰で、さしたる勾配ではない。 途中には2つの海底駅があり、それぞれ「吉岡海底駅」「竜飛海底駅」という駅名である。それぞれ北海道側・本州側の、海岸線の真下に作られており、いざという時にはここから地上に避難が可能である。また、みどりの窓口などで予約すれば、海底駅の見学ツアーに参加する事もできる。これは完全予約制且つ定員制であるので注意して欲しい。青函トンネル記念館と竜飛海底駅コースが4月25日から11月1日の実施で\2040、吉岡海底駅コースが通年実施で\840である。 さらに詳しい事を言うと、一分間に青函トンネル全体で湧き出している水の量は何と29トン。これらは先進導坑を通して、竜飛及び吉岡の排水基地に送られ、汲み上げられる。先進導坑内で最も深い場所にある吉岡側のポンプは、最大排水量が毎分30トン以上で、このポンプ一機のみでもトンネル内の湧水全てに対処する事ができるようになっている。この水は海水が岩の中に浸み込んで湧き出した地下水なので、塩分含有量も少なく、ヒラメの稚魚養殖などに活用されている。 また、列車火災の際には、吉岡と竜飛の地上に設置された巨大な送風機から、トンネル内に秒速20mという高速で空気を吹き込み、乗客の窒息を防ぐ仕組みになっている。ただ、人間が窒息しない量の酸素が供給されているという事は、火も燃え続けそうな気がするが、スプリンクラーなどの消火設備で消し止めるそうである。 また、真っ暗なトンネル内で数十分間も孤独と戦わねばならぬ運転士が眠ってしまわないように、トンネル内では2分に一回のペースで、運転士に対する警報装置が鳴り出すようになっている。もし30秒以上、この警報を止めずにいると自動的に非常ブレーキが掛かり、同時に地上にもその事態が通告されるというシステムであり、居眠りだけでなく、癲癇や何らかの発作などで、運転士が異常を来した際にも、最長2分半以内にその以上が発覚するという事だ。 色々書いてはみたが、何しろ世界最長のトンネルであり、何気なく通っていれば気が付かないが、そこには二重三重の事故防止システムが施されているという事だ。 最深地点である事を示す青色のサインを見てから、車内を通り抜け急いで後方展望窓に移る。勿論、青函トンネルの出口を撮影する為だ。如何なるトンネルにも入口と出口が定められており、青函トンネルでは今も書いたように北海道側が出口、本州側が入口である。 |
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この時台風15号は日本海を約100km/hという、台風とは思えない高速で北海道を目指して北上し続けていた。観測史上、このような挙動を示した台風は、この台風15号くらいのものだという。僕は天気図を描くのが好きで、大型台風が日本に接近してきた時は、ラジオで一日三回流れる気象情報を毎回聞いて天気図を採るが、確かにそのような台風は見た事もない。 しかも不運な事に、予報では津軽海峡を抜けると思われていた台風15号は、北海道の西岸にあたる渡島沖を抜けるように進んでしまい、その上、オホーツク海上に発達した高気圧のせいで台風の速度は北海道に接近してから急激に落ち、その結果、津軽海峡は非常に長時間に亘って、台風15号の危険半円内に入る事となってしまったのである。 さらに、函館の街で観測された夕焼けについては、台風15号が温帯低気圧に変わったが為に前線を伴い、その前線が引き起こした悪戯だったと考えられる。閉塞前線の付近では晴れ間が覗くことが多いのだという。しかし、洞爺丸の船長はその晴れ間が、台風の目に入った為と考えた。台風の目に入ったのであれば、これから吹き返しが来るが、危険半円に入る事は無いだろうから出航しても大丈夫だろう、それが、この悲劇を引き起こした最大の要因だった。 気象観測がかなり発達した現在ならば、台風の位置や予想進路はかなり正確に、それもほぼリアルタイムで分かるのでこうした事はまず起こらないが、当時の気象観測技術では台風の位置を伝えられるのは、観測から数時間後であった。これが、函館の夕焼けを引き起こしたのが決して台風の目でなく、温帯低気圧の中心から東に伸びた閉塞前線によるものである事に気付かせない理由となったのだ。 出航直前から、また雨が降り始めて風も強くなったが、これからは可航半円に入ると考えた洞爺丸は函館港を出港した。しかし、あまりに強くなり始めた風のせいで、港を出る事すらできずに出航から僅か20分で投錨する。もしもこの時、岸壁まで引き返しておけばと思わずにはいられない。 しかし、実はこれは軽率極まりない発言なのだ。実は、函館港は港内でさえ風速40m/s、瞬間最大風速55m/sという猛烈な風が吹き荒れており、とても岸壁に戻るという事ができなかったのである。このような突風吹き荒れる中で3400トンもある船体を岩壁に寄せる事は、自殺行為でしかない。岩壁に近寄った瞬間に突風に煽られでもすれば、それは船体が岩壁に激突して大破沈没する事を意味する。現に、洞爺丸が出航する少し前に函館港に到着した第11青函丸は、岩壁に係留するまでに何度となくやり直しをしている。船を岩壁に係留するためのロープは、船から岸に居る係員に向かって投げられるが、幾度投げてもそのロープが風に煽られて岸に届かなかったのである。因みに、この時の平均風速は20m/sであった。20m/sでさえそれなのだから、40m/sでは着岸など到底不可能である事がお分かり頂けると思う。 |
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路面電車特有の堅い揺れに身を任せながら外を見入っていると、あっという間に宝来町・青柳町を過ぎた。さぁ、最終区間だぞと思うが早いか、もう電車は減速し始めて停車した。終着の谷地頭駅である。市電は駅間の距離が短いから、完乗を前にして身構える暇も無い。しかし何はともあれ、これにて目出度く北海道全線完乗である。 運転士さんに料金を払って市電を降り、駅前にあったスーパーで晩飯を買うと、もう街は暮れていた。 しかし、行きたい所には行っておく事にする。今回の旅は旅程が無い代わりに、行きたい所は山のように多いのだ。かと言って、その全てに行けるはずもなく、行ける分だけ全てに行こうという感じである。 まずは立待岬に行った。ここには以前に一度来た事がある。中学一年の時、家族旅行で北海道に来た時の事だ。あの時は行き帰り共に飛行機だったし、バスツアーだったから観光地を効率よく巡ったが、それだけの旅であった。やはり、旅は自分で企画・立案し、自らの足で土地土地を歩かねばならないものだと思う。 今日は夜ではあるし、前に来たのが7年前ではあるし、朧気な記憶の中の立待岬とは全く違った。あの時は夏であり、岬には浜茄子が咲き乱れていたので、関心がそこにばかり集中していたのだろうか、背後に聳える奇岩の事などは気に留めていなかったらしく、全く覚えていなかった。初めての場所に来たような気持ちで案内板を読み、闇の中に浮かぶ大岩を眺めた。 沖には数多くの漁船が出ていて、その漁り火が眩しい程に輝いている。返り見れば函館山の展望台と街灯が闇に点々と浮かんでいる。さして寒さは感じないが夜なので辺りに人は居ないし、来る途中には墓場を通ったので、妙なものが辺りに憑いていないかも気に掛かる。それなりにゆっくりとは見たが、心落ち着く事はできずに退散した。 その墓場には、かの石川啄木も眠っている。しかし、ゆっくり見る勇気などとても無い。行きも帰りも人っ子一人通らないので、逃げ出したくなる衝動を堪える。ようやく谷地頭に帰り着いた時には、神経が擦り切れてしまったような感覚を覚えた。 |
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