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いい日旅立ち

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0日目・1日目
旅立ち〜寝台特急日本海1号 受難の記録〜青森〜スーパー白鳥7号〜函館〜スーパー北斗21号・利尻〜


 こんな景色があって良いものだろうか。

 今の今まで、疲れに打ちのめされていた僕は、発狂しそうな程にその、目の前に広がる、何であろう、景色などとは気安く言えないかもしれない、情景も不適当な表現だ、とにかく、この世のものとは思えない美しさに心奪われた。
 叫びにならない叫びが口を突いて、そこに吸い込まれていく。時間が止まった。

 北海道・摩周湖、第三展望台。僕は動く事もできないまま、心底からの叫びを続けていた。



 数日前まで、僕は様々に疲れ果てていた。端から見れば贅沢な疲れだったと回想するが、当の本人は本気で悩み、疲れていたのだから認めて頂くしかない。弱い人間だと思われるかも知れないが、もはや今となっては構わない。
 僕が何を悩んでいたのかなどここに書くのは、何の関係も無い読者の皆様にとって迷惑千万であろうし、大体、これは紀行文なのだから趣旨に反する事甚だしく、一切書かないが、1年半お世話になった部を辞めるかどうか、またそれに付随する諸問題であった事だけは明かしておく。

 悩み暮れていた僕に一条の光を差したのは、他ならぬ旅だった。旅こそが、僕をこの疲れ切った生活から救ってくれるに違いないと思ったのである。無論、今回の旅に出るにあたっては、自分の中でもそんな甘い考えを制する気持ちと、今のままではいけないから数日間は犠牲にする覚悟が必要だという考えが葛藤し、前日の夜まで悩みに悩んだ。それに、旅に出ようとする事に反対する面々もいた。「お前は現実から逃げているだけだ」と。
 しかし全ては、事情を洗いざらい聞いてくれた親友の一声が決定打となった。
「旅に出て、悩むだけ悩んで来い。それで、もしお前に部活が必要なんだったら、その時は潔く頭を下げて部に戻ればいい。」
 これで全ては決した。

 僕はHPの掲示板と日記にその旨を書き込み、一緒にいた2人の親友にのみその決意を告げ、大学が文化祭に沸く中、一人北へと旅立つ事にしたのであった。時に、2003年11月23日の事であった。
 今回ばかりは、事前に何の用意もしておらず、前日はその友人たちと2時過ぎまで飲んでいたが、5時前には起きて準備をした。2時間余りの睡眠時間だったが、頭は冴え渡り、気分は早くもあの、旅に出る前の独特に高揚した感じになりながらバイトを2件済ませ、京都駅に向かった。途中、城陽でのバイト先から駅に向かう途中で日が暮れたが、その夕焼けが何とも美しかった。
 京都駅のみどりの窓口に並んだが、急な思いつきなので、何も先の事は考えていない。あまりにも急だったので、学割証明書を発行してくるのがやっとだった。これから数日間、予定が空いているという訳ではない。金も、どこまで保つか分からない。そんな事はしかし、何度となく考えた事だ。だが幾度考えても、結論は一つだった。
 俺には旅が必要なのだ、ただそれだけである。

 窓口氏の不手際で、発券に異様なまでの時間が掛かり、乗ろうとしていた寝台特急『日本海1号』は出てしまった。仕方ない。急に複雑な切符の注文をする俺が悪いのだ。今はそんな事でイライラする程、心の余裕もなかった。

 18時25分、切符の注文から15分で、北海道への周遊券 (往復切符付き) と日本海1号の寝台特急券などを購入できた。計46650円の出費だったが、この旅における交通費の約90%を先払いした勘定になるから、そう高くはない。さらに改札前の券売機で敦賀までの自由席特急券を買ってから、威風堂々と京都駅0番線に向かった。
京都駅で購入した切符たち
 しかし、中央改札を通り、ホームに向かう途中で、何だか後ろを振り返りたくなった。暫く見る事のできない京都の夜景が窓ガラス越しに見えている。
 京都を発つ前日、僕はしばらく見る事の無くなるであろう景色に別れを告げていた。夕刻、話を聞いてくれる事になった友人の家に行く前であった。雲を染めながら沈みゆく夕陽が東山を照らし出し、大文字が大きく浮かんでいた。キャンパスの銀杏並木も、日に日に黄色が濃くなっていくのが分かる。しかし、僕が次にこの銀杏を見る頃のは、道が落葉で埋まるような時期かも知れない。

 悩む僕を助けてくれた人とも、悩みの種となってくれた人とも、暫くのお別れである。18時39分、僕を乗せた特急『雷鳥41号』は、静かに発車した。


 日本海1号ではなく、金沢行きの雷鳥41号に乗らなくてはならなくなったのは、先述の通り手際の悪い京都駅の窓口氏のせいだが、この列車は巧い具合に、先行する日本海1号を敦賀で追い抜かす。日本海は機関車が牽引する客車列車である為に、どうしても電車に比べて表定速度 (平均時速) が遅くなる。そこで、日本海は敦賀駅にて11分間という特急列車にしては長時間の停車を行い、その間に名古屋始発のしらさぎ13号と、京都を19分後に出る我が雷鳥41号に追い越されるのだ。
 自由席は満席で、僕は指定席車輌のデッキに立っていた。手に持った携帯に充電器を繋いで洗面所のコンセントで充電しながら、気の置けないごく少数の友人たちだけにメールを送った。
「いつ帰るか分からんし、連絡途切れるかもしれんけど、必ず僕は、北の大地のどこかで元気にしています。迷惑もかけたし、かけるけど、しっかり自分を見つけてきます。まさに、いい日旅立ち。」
 今回の旅の主題曲として、僕は谷村新司の「いい日旅立ち」を選んでいた。季節に少々の違いはあるが、行き先や心境は酷似しており、何度となく繰り返し再生して聴いた。

 雷鳥に乗る為には別途、特急券を買わねばならず、予定より\1150の無駄遣いとなったが、今の僕にはものの数ではなかった。思い立った列車で旅立てるのだから本望である。

 近江塩津で湖西線から北陸本線に入り、敦賀に着いたのは19時32分。京都で僕が乗り損ねた日本海1号は、向かいのホームで青い体を暫し休めていた。
敦賀駅にて日本海に乗り換え
 ブルートレインに乗るのは久しぶりだ。菜の花さがしで寝台特急富士に乗ったのが一番最近だから、8ヶ月ぶりという事になる。その間も、夜行列車には何度となく乗っているが、ブルートレイン、つまり夜行寝台特急となると話が違う。いつも貧乏旅行の僕は夜行と言えばムーンライトで、座席に座って、時には指定券すらも取らず床の上に直に座って、夜を明かすというのが常だからだ。
 ブルートレインに初めて乗ったのは昨年の7月、七帝の帰途だった。本来ならばムーンライトえちごで帰れるはずが、大船渡線の土砂崩れのせいで、千厩−一ノ関間に乗破出来ないわ代行バスが東北本線の列車には間に合わないわで、惨憺たる目に遭った、その帰り道だ。だが、初めて乗るブルートレインはやはり素晴らしいもので、碌に眠らなかったのを覚えている。

 今回も眠らないのは同じだが、長旅になるかも知れない、その初めなので、ある程度は寝ておかなくてはならない。ともかく、ブルートレインに乗ったら編成の頭から尻まで歩いてみないと気が済まないから、自分の寝台に荷物を置くなり、車内探検に出掛けた。
 日本海1号の編成を前から順に説明すると、牽引する機関車はEF81型交直両用電気機関車、そして12号車から1号車までの客車が続き、最後尾が電源・荷物車となっている。日本海1号は函館行きとなっているが、12号車から5号車までは途中の青森止まり。寝台の設備は、1号車が一人用A個室である他は、全て二段式B寝台となっていて、急に旅をしようと思い立った僕などは勿論B寝台 (3号車3番上段) の乗客である。
室温計にはJNRのマークが
 まずは1号車まで行ってみるが、個室というものは外からでは中に人が居るのかどうかなど判らない。A個室は10室あるが、何室が使用中かは判らなかった。
 2号車の乗車率は寝台34に対し乗車人員20人。まだ敦賀を出たばかりにしては、素晴らしい乗車率である。我が3号車は12/34、以下、順に4号車9/32、5号車6/34、6号車が22/34であった。7号車から先も取材したかったが、7号車では既に出来上がっているオヤッサンたちの宴会が少なくとも3箇所で行われており、その横を通ってまで取材を続ける気にはなれなかったので自分の寝台に立ち返り、京都駅で買った「とんかつ お弁当」を食した。
これが甘えび寿し
 車内販売が来たのでビールを買って、先程雷鳥41号の中で買っておいた加賀温泉駅の駅弁である「甘えび寿し」を食べたりして、皆が寝静まる時刻を待つ。この駅弁は美味い駅弁ベスト50にもランクインしており、生の甘えびを列車の中で味わう事ができるという逸品。ただ、僕としてはもう少し乗っている甘えびの量が多くてもいいように思った。
 20時52分、加賀温泉駅を出ると車内が少し静まった。僕も何だか眠くなってきたので、第二次車内探検を行って眠ろうと思う。例によって書いていくと、1号車不明、2号車25/32、3号車12/34、4号車11/32、5号車19/34、6号車25/34、7号車30/34、8号車4/34、9号車7/34、10号車14/34、11号車10/32、12号車5/32であった。各号車によって、不平等とも言いたい乗車人数の差があるが、B寝台全体の乗車率は162/366で約44%。特に観光のシーズンでもないこの時期に、これ程の乗車率であれば、まずまずと言えるだろう。十分黒字を捻出できるはずだ。
 まだ21時だというのに眠気に襲われたので、寝台に帰ってMDを聴きながら眠る事にしたが、あまりにすぐ眠ったらしく、何を聴いたのかすら憶えていない。恐らくここ数日の間に溜まった疲れが、旅に出られたという気の弛みと共にどっと押し寄せたのだろう。



 人間というものは、眠っている間も神経をあちらこちらに向けて尖らせている。無論、起きている時程ではないにせよ、授業中寝ていて自分の名前を呼ばれれば何事も無かったかのように立ち上がれるのも (質問の内容に答えられるかは別として)、耳が寝ている間もきちんとその役割を果たしているからである。
 体全体としても同じで、揺れる寝台車の中で眠れば、揺れているのが常態のようになっているから、停まって揺れなくなった時に目を覚ますものである。寝台車は良く眠れないという人の殆どがこれで、眠りそのものが浅い訳ではなく、停車駅の度に目を覚ますから、その分ノンレム睡眠の時間が短くなって、よく眠れなかったという感覚を催すのだ。
 僕は寝台車であれ座席であれ駅のベンチであれ、眠ければ何処でも寝るし、一旦寝たらなかなか起きない。しかし、今回ばかりはそんな僕すらも起きてしまった。

 ふと気が付けば、列車は止まっている。それも、ちょっと止まっていたくらいでは絶対に起きない僕が異変を感じているくらいだから、相当な時間停車していたのだろう。腕時計の夜光文字盤を見ると、まだ1時47分である。咄嗟に『事故か?』と思った。
 僕の寝台は4人用開放型B寝台の上段である。下段は二つとも埋まっているが、もう一つの上段ベッドは空いているので、通路の屋根裏に当たる部分は荷物置き場となっているのだが、そこを一人で占領できていた。かなりのスペースだったので、だらしない性格の僕は散らかし放題である。
隣のホームに停まっていた急行能登
 その荷物の中から時刻表を取り出して日本海1号の時刻を調べるが、新潟県の新津を1時28分に出た後は、山形県の鶴岡に3時31分に着くまでどこにも停車しないはずである。対向待ちなどの運転停車という事も考え得るが、それにしては時間が長すぎる。
 本能的に、様子がおかしいと気付いたのだと思う。もし何も無かった時の為に、いつでも眠りに就けるよう眠気を振り払わないまま窓の外を見たが、僕の本能は正しかった。
 見えた駅名は何と『かきざき』!
 柿崎は、新津の遥か100km以上手前であり、本来なら夜半過ぎには通過していなくてはならないはずである。しかも、隣のホームには後発の上野行き急行『能登』が停まっている。こちらの列車さえ、少なく見積もっても1時間半以上の遅れである。

 眠気は一気に吹き飛び、僕は車掌室を訪ねた。勿論、文句を言う気など毛頭無い。元々僕の旅には旅程など無いのだから、別にこの列車が2時間遅れようが10時間遅れようが、JRがそれ相応の対応さえしてくれれば何も文句など無い。寧ろ、日頃はできない経験ができて嬉しくさえあるのだ。
 車掌室はひっそりとしていた。時刻が時刻だけに、まだ客たちの多くはこの異変に気付かず眠っているのだろう。車掌さんに事情を伺った。
 昨夜22時半頃に、柏崎駅 (今、立ち往生している柿崎駅から東に20km) 付近の踏切で自動車と普通列車の接触事故があり、復旧作業が行われているものの、復旧の目処は立っていないとの事。既に事故から4時間が経とうとしているのに目処すら立たないとはどういう事かとも思うが、腹立たしいどころか、もっと時間が掛かって欲しいと思う。小学生の時、大した雨でもないのに警報が出ていて、このままいけばその日丸一日学校が休みになるという朝の気分に似ているかも知れない。

 しばらくは窓辺の椅子に座り、時折通りかかる人たちと車掌から聞いた情報を交換しながら動くのを待っていたが、2時半を過ぎても動かないので少し眠った。

 3時55分、大阪方面行きは動き出したとの情報が入るも、対向する列車があれば気付くはずだが、そんな列車は見ていないところを考えると、大阪方面の列車が動いている様子はない。
 4時21分になって、ようやく我が日本海1号が動き出した。遅れは時刻表などから分析するに、約4時間であろう。先述の通り、僕は4時間でも10時間でも、遅れれば遅れる程嬉しいと思っているから良いのだが、この時節、観光客などは少なく、多くのお客さんたちは急ぎの用であろうから、この遅れは大変だろうと思う。
 下の寝台2つは、2人連れの若い女性である。車掌さんとの会話を盗み聞くと、どうやら羽後本荘まで行くようである。車掌さんとは至って穏やかに話していた二人組であったが、車掌さんが行った後に関西弁で「ふざけんな!4時間遅れって……」とボヤいた。それが本音であろう。

 4時57分に来迎寺で運転停車。発車してすぐに、信濃川の長い鉄橋を渡る。まだ新潟市の河口まで80km以上あるのに、川幅は1km弱に達するのではと思う程であり、さすがは日本一の大河だと思う。道路橋の灯が川面に反射して、さざめく水の描く模様を映し出している。
 次の前川までの間で、上りの寝台特急日本海2号とすれ違う。時刻表から計算すると、定時なら日本海2号はこの辺りを1時前には通過しているはずであり、向こうも4時間以上遅れているのだと知った。
 前川の二つ先は長岡であり、ホームにはトワイライトエクスプレスカラーのEF81に牽かれた日本海4号が停車中であった。こちらの遅れは約2時間。乗っている客たちは、特急料金が払い戻されるかどうかの瀬戸際である。JRでは、特急や急行が2時間以上遅延した場合、その特急料金や急行料金を全額払い戻す規定となっている。

 新津から羽越本線に入る。羽越本線は、単線区間と複線区間が短い区間で入り乱れている。複線区間では、少し遅れを取り戻すかと思うような走りを見せるが、すぐに単線区間に突入して対向待ちを喰らう。殆ど眠っていたから分からなかったが、先述の通り、長い時間停まっていると僕は目を覚ます訳で、それが何回かあったから、かなりの回数長時間停車を喰らったものと思われる。それなら、複線区間であんまり飛ばさずに走っても同じではないかと思うくらいだ。


朝の放送を坂町で聞く
 2003年11月24日6時18分、朝一の放送が入る。定時ならば秋田県北部の東能代到着時にこの放送を聞くはずであったが、何とまだ新潟県の坂町駅である。それも、放送が入る少し前からかなり長い時間停車したまま動かない。寝台車内が俄にうるさくなり始めた。ただ、前夜に引き続いて今晩も睡眠不足となった僕は、そんな喧噪も何処吹く風、深い眠りに入る。

 8時頃に着いた酒田付近で寝床を上げる。やはり4時間遅れは少しも回復していない。ただ何度も言うように、僕にとっては回復される事こそ迷惑なのである。今さら大急ぎで走って4時間遅れが例えば3時間遅れに減ったところで、僕には今後の予定というものがそもそも存在しないのだから、それで乗り継ぎが巧くいくとか待っている人に早く会えるという訳でもなく、メリットがないのである。
 それより、滅多にない4時間もの特急列車の遅れを堪能する方がよい。
 車掌室に行って無料で配布されたおにぎり2個とお茶をもらい、廊下の椅子に腰掛けて外を眺めながらの朝食を採った。先程、起きている人には車掌が回って配ったが、僕は熟睡していたようだ。サンクスに大量発注した様子で、袋の中にはおしぼりまで入っている。まだ食べていない駅弁もあって、朝から豪勢なお客に胃袋は驚いていたが、皆片付けてしまった。
 しかし、有耶無耶の関付近の美しい海をこんな時間に見る事ができるのも、列車が遅れてくれたおかげである。定時なら象潟は4時半頃に通過する予定で、そうでなくても朝寝坊が大好きな僕には、とても起きられる時間帯ではない。第一そんな時間に目覚めても、この季節はまだ陽が明けていないから外は見られないであろう。全く、僕には幸運である。この区間を陽のあるうちに通ったのは、これが初めてであるし。
海の間近を走る
 象潟や雨に西施がねぶの花、と芭蕉が詠んだのは今から300年も前の事。その当時の象潟は、鳥海山から噴出した土砂が堆積した浅い海で、現在も残る「九十九島」という名の通り、天辺に松の木を頂いた数多くの小さな島が波の間に浮かんでいたが、今からちょうど200年前の象潟大地震で地盤が約2m以上も隆起し、海底が陸地となって現在の不思議な光景が誕生した。
 海は見たいし、九十九島は見たいし、寝台車の中を左へ右へ、なかなかに忙しい。羽越本線は現在の海岸線を通るので、海は左に、昔浅海だった九十九島は右に見えるのだ。
秋田市が近付いても、車窓は変わらない
 羽後本荘で下段の二人連れが降りた。これで4人分の寝台を独り占めできるのだから、かなり広くなった。今の今まで女性客が寝ていたと分かっている寝台に腰掛けるのも悪いが、下に誰もいないのにわざわざ上段までよじ上る理由もない。

 どこまでも同じ風景が続いている気がする。時刻表から計算する限り、秋田駅到着の10分前だというのに、一向に景色が変わらない。線路は海沿いを走り、間に青々とした防風林の松並木が茂っている。本州や四国の松とは異なり、この辺りの松はひたすらに背が高く、風の行く道を遮るように生えている。僕の知っている松の木は、もっと横に広くて背が低い。5分ほど前になって、ようやく線路は海沿いを離れ、秋田の市街地へと入った。
秋田駅に停車中のE3系こまち
 10時20分、秋田を発車。横のホームから東京行きの新幹線こまちも同時に発車した。
 秋田以北は、ほんの2ヶ月半前、JR全線完乗旅行で乗ったから、景色にも鮮明な記憶がある。線路はだんだん内陸に入るから海は見えないが、八郎潟のだだっ広い干拓地を眺め、『日本一のじゅんさい角助沼』の看板に「八郎潟も、米だけではないのだな」と感心し、秋田杉の美しい防雪林・防風林が車窓に飛び、やがて前方から岩木山の勇姿が近付いてくると、もう弘前である。秋田から約二時間、殆ど遅れを取り戻していないが、途中、大館駅の4分間停車などはカットしたから、改札口まで走って鶏めし駅弁を買おうと思っていた野望は打ち砕かれた。
岩木山の秀麗なる山容
 12時29分、4時間43分遅れで弘前駅を発車。ここまでくると、30分や40分の遅れはものの数ではない。チャップリンが彼の映画『殺人狂時代』の中で「一人殺した者は殺人者だが、百万人殺した者は英雄だ」というような事を言っていたが、それに似ている。10分の遅れは憤慨に値するが、これ程の遅れは、寧ろ僕にとっては賞賛に値する。
 日陰の斜面には雪が積もっているようになった。外は寒いだろうと覚悟を決めるが、(かね)て期したるところなれば、別に驚く訳でもない。大鰐温泉を過ぎた辺りから、収穫を終えたリンゴの木も目立ち始めてきた。いよいよ北にやって来たのだと悟る。陸奥(みちのく)とはよく言ったものである。
青森駅改札前にて
 青森の手前で、振り替え輸送の案内があった。我らが日本海1号は先述の通り、青森で5号車から12号車を切り離す為に暫く停車する。その間に青森を出る八戸始発函館行き特急スーパー白鳥7号への振り替え乗車が認められたのだ。つまり、新たに特急券を買わなくてもスーパー白鳥に乗れるという事である。これは願ってもない事であり、日本海1号の寝台を広々と占拠しながら北海道に渡るのも一興かと思っていた僕だったが、コロッと気が変わり、17時間半過ごした寝台を後にする事に決めた。
 青森到着は13時3分。定時より4時間33分遅れでの到着であった。これ程の遅れにも拘わらず、運転打ち切りにもならずに根気よく函館を目指す殊勝な列車に別れを告げ、青森駅の歩廊に降り立った。
斜張橋の向こうに八甲田丸の黄色い船体が見える
 発車までに時間があるので、跨線橋から、昔の連絡線用港に係留されている八甲田丸を眺めた。青函トンネルが完成したのは、僕が4歳の時である。先進導坑が完成した時は、まだ母親の腹の中にいた訳だから、僕が青函連絡船に乗った経験はない。黄色の船体と、JNRマークの入った独特の煙突形状が美しい八甲田丸が津軽の海に乗り出す事は、もう無いのだろう。
 因みに、青函連絡船が通る津軽海峡は、外海のような波の荒さを呈する為、船も外海用に設計されているという。因みに、宇高連絡線は内海用に設計された船を用いていた。両者で船の強度は大きく異なるのだという。
これがHEAT789系だ
 いよいよ13時15分、HEAT789系振り子電車のスーパー白鳥7号が入線してきた。JR北海道の電車であり、キハ281系FURIKOとマスクがよく似ている。そもそもHEATというのは、Hokkaido Express Advanced Train、つまり「北海道超特急列車」の略称で、以前はキハ281系が冠していた単語である。
 JR北海道が全力で開発に取り組んだと見えて、外観は勿論、内装もなかなかのものである。各出入り口横には、津軽海峡付近の地図がデザインされ、銀色の車体にアクセントとなっている。座席が狭い感じである他は、JR東日本が開発するより数倍良い列車ができたのではないだろうか。変わり種列車では、JR北海道はJR九州にまでは及ばないが、この789系も良い線行っている。さらにこの列車には、鉄道ファンには堪らない素晴らしい設計が隠されているのだが、それは走り出してからの話にしよう。
オリジナル駅弁コンクールグランプリ受賞の力作

 青森駅とのお別れ間際に、現在でも取り壊されていない青函連絡船用連絡通路を見に行った。ホームの最も海側にある跨線橋だが、さすがに現在では立ち入り禁止のバリケードが立てられ、中に入る事はできなかった。
 ここまで僕を運んでくれた日本海1号が、機関車、電源車に客車4輌という身軽な編成になっているのを横目で見ているうち動き出した。このスーパー白鳥7号は青森函館間を2時間かからずに結ぶ。日本海1号が2時間半以上掛かっている事を考えるとその速さが分かる。
 寒々とした陸奥湾を右手に見ながら「秋田まるごと弁当」という日本海1号の車内で買った弁当を食べる。じゅんさいやワカサギが美味かった。
 暫しの間、本州ともお別れである。下北半島が海の向こうに白く霞んでいる。しかしそれは、単なる水蒸気の靄などではなく、これから来たるべき寒さがもたらした、北の国へのヴェールであるかのようだった。



 太宰治が小説「津軽」の中で『風の街だねぇ』と描いた蟹田を過ぎ、素寒貧とした景色を走って新中小国信号所のだだっ広いヤードを抜ければ、青函トンネルは目前である。北海道を目指す長大な貨物列車が、我らのスーパー白鳥を待避している。差詰め、白鳥に道を譲る濱鴎といったところであろうか。しかし、体躯の大きさだけから考えれば、貨物列車の方が白鳥という気もする。

 そろそろ、席を立って行かなければならない所がある。ドア上の電光掲示板に字幕で青函トンネルについてのウンチクが流れている下をいくつも潜り、先頭車両にやってきた。目的は、前面展望窓である。既に親子連れの先客がいたが、感じの良いお父さんで、僕にも場所を譲ってくれた。齧り付くように前かぶをしている子供は来年から小学校。初めての渡道だという事である。
 中小国を過ぎると、列車は断続的に短いトンネルに入っては出る。青函トンネルまでに8本の短いトンネルがあるから、僕も初めて乗った時などは、その度に「これこそが青函トンネルか?」と思うなり、期待を裏切られてすぐに出る、という事を繰り返した。
 8本のうちの一つは1kmを超える長さだから、乗客が最も間違えやすいトンネルだ。見ていると「これだね。」「ああ、入ったね。」と会話している人たちが周りに多くいたが、その会話も一段落しないうちにパッと周りが明るくなって、車内は「あら?違ったんだね」というような声が、そこかしこから聞こえてくる。
 8つもあるから、狼少年よろしく、だんだんと「本当に青函トンネルに入るのか?」という気がしてくる。乗客の多くが面倒くさくなり窓から目を離し始める頃、9つ目に入るのが青函トンネルで、結果、乗客たちは待ち望んでいたはずの青函トンネルに入る瞬間を見逃してしまう。大抵の人は入った後暫くしてから「これが青函トンネルだったんだね」と気付く有様になる。

 しかし、前面展望していればそんな心配もない。青函トンネルのポータルは、他のトンネルより遙かに重厚なので、見誤る心配がない。単音の短い汽笛をプァッと鳴らしながら、789系はその短いトンネルに入っては出る。初めは熱心に前方を見ていた子供もさすがに「まだなの?」とお父さんに訊き始めた。
青函トンネル本州側の坑門
「あと3つですか?」「いや、2つでしょう。」
 僕とお父さんはカメラを手にしながら、その瞬間を今か今かと待つ。

 14時1分。
 いよいよ青函トンネルの入り口が見え始めた。白鳥は驀地(まっしぐら)に、日本が世界に誇るその世紀の建造物へ突っ込んでゆこうとする。目測130km/h以上は出ているだろう。
「プァーーーッ」
 今までになく長い、複音の長笛を鳴らした白鳥は、『青函隧道』と記された御影石の名称板が立派に掲げられた青函トンネルの闇に突入した。

 トンネルに入った瞬間に前面ガラスが、さっと真っ白に曇った。青函トンネルの中は湧水のせいで湿度が80%程度にも達するそうであるから、寒い外気に触れ続けてきたガラスが曇るのも無理はない。前面ガラスには手動のワイパーも付いており、それを動かして何度も曇りを拭うが、あっという間に真っ白になる。勿論、曇りが取れても、トンネルの闇の中で何が見えるという訳はないのであるけれど。
 しかし、この速度感はなかなか味わえない。キロポストと腕時計を頼りに速度を計算すると、26秒で1キロを走ったから、約138km/h。確かに青函トンネル内の最高速度という事になっている140km/hに近い速度が出ていると分かり、満足な気分になる。
 因みに、前面展望しなくても、入ったトンネルが青函トンネルかどうかを一発で見極める方法をお教えしよう。青函トンネルには、入口にも出口にも、緑色の蛍光灯のサインが点いており、トンネルの壁面に緑の光が流れたら、それが青函トンネルに入った証である。
 因みに最深部には同じように青い蛍光灯が点けられており、やはり前面展望しなくても、海面下246mを走っている事が分かるようになっている。

 一応、青函トンネルの概要を書いておくと、長さ53.85km、昭和60年3月10日に本坑貫通。大きく言えば先進導坑・作業坑・本坑の三本から成り、列車が通るのは本坑、湧水を流すのが先進導坑、万が一の為の避難経路として作業坑を用いる。本坑は高さ7.85m、幅9.7mの楕円形で、これは将来的に新幹線車輌が通行できる大きさである。最深部は海面下246mで、146mの海底よりさらに100m下。そんな海底にまで下りてゆく割に、最急勾配は12‰で、さしたる勾配ではない。
 途中には2つの海底駅があり、それぞれ「吉岡海底駅」「竜飛海底駅」という駅名である。それぞれ北海道側・本州側の、海岸線の真下に作られており、いざという時にはここから地上に避難が可能である。また、みどりの窓口などで予約すれば、海底駅の見学ツアーに参加する事もできる。これは完全予約制且つ定員制であるので注意して欲しい。青函トンネル記念館と竜飛海底駅コースが4月25日から11月1日の実施で\2040、吉岡海底駅コースが通年実施で\840である。

 さらに詳しい事を言うと、一分間に青函トンネル全体で湧き出している水の量は何と29トン。これらは先進導坑を通して、竜飛及び吉岡の排水基地に送られ、汲み上げられる。先進導坑内で最も深い場所にある吉岡側のポンプは、最大排水量が毎分30トン以上で、このポンプ一機のみでもトンネル内の湧水全てに対処する事ができるようになっている。この水は海水が岩の中に浸み込んで湧き出した地下水なので、塩分含有量も少なく、ヒラメの稚魚養殖などに活用されている。
 また、列車火災の際には、吉岡と竜飛の地上に設置された巨大な送風機から、トンネル内に秒速20mという高速で空気を吹き込み、乗客の窒息を防ぐ仕組みになっている。ただ、人間が窒息しない量の酸素が供給されているという事は、火も燃え続けそうな気がするが、スプリンクラーなどの消火設備で消し止めるそうである。
 また、真っ暗なトンネル内で数十分間も孤独と戦わねばならぬ運転士が眠ってしまわないように、トンネル内では2分に一回のペースで、運転士に対する警報装置が鳴り出すようになっている。もし30秒以上、この警報を止めずにいると自動的に非常ブレーキが掛かり、同時に地上にもその事態が通告されるというシステムであり、居眠りだけでなく、癲癇や何らかの発作などで、運転士が異常を来した際にも、最長2分半以内にその以上が発覚するという事だ。

 色々書いてはみたが、何しろ世界最長のトンネルであり、何気なく通っていれば気が付かないが、そこには二重三重の事故防止システムが施されているという事だ。

 最深地点である事を示す青色のサインを見てから、車内を通り抜け急いで後方展望窓に移る。勿論、青函トンネルの出口を撮影する為だ。如何なるトンネルにも入口と出口が定められており、青函トンネルでは今も書いたように北海道側が出口、本州側が入口である。


青函トンネル北海道側の坑門
 後方展望窓には誰もおらず、一人きりで北海道上陸の瞬間を見届ける事になった。長らく続いた上り勾配が尽きて、トンネルの出口を示す青い蛍光がトンネル壁面を走ると、すぐに我らが白鳥は北海道の大地に飛び出した。
 一瞬にして、世界が黒から白に転ずる。
 一面、雪景色である。
 嗚呼、いよいよやって来たのだ、俺は。
 一時的ではあれ、人生で初めて、後先を一切考えずに飛び出した旅の目的地というものに。
 ただ、北の大地は『目的地』と呼ぶには、余りにも広大で茫洋としたものではあったけれど。
ほたて黄金めし
 席に戻って、青森駅で買った「ほたて黄金めし」を食す。薄味の炊き込みご飯は美味しかったが、貝柱の味付けにもう一工夫欲しいところであった。基本的に青森駅の駅弁は美味いのだが、もう一頑張りすれば美味いのになと思う駅弁が多い。
 木古内を過ぎてしばらく走ると、右手に『咸臨丸終焉の地』の碑が見える。勝海舟がイギリスから購入し、太平洋を渡ってアメリカの地に赴いた事はあまりにも有名であるが、帰国してから波乱の運命を辿った後、最後は津軽海峡の物資運搬船として任務に就いている際に座礁事故を起こして沈没した事はあまり知られていないのではないか。寒い霞の向こうに見える本州が遠かった。
建て替えられたばかりの函館駅舎
 15時16分、定刻にスーパー白鳥7号は函館に到着した。駅弁を買ってから窓口で特急券の払い戻しをしてもらい、街に出る。とは言っても、もう15時半だ。本来なら、函館の街を東から西までぶらつき歩くつもりであったが、あまり時間がないので近場だけしか巡らない事にする。
 まずは、旧函館連絡線桟橋に係留されている摩周丸を見に行く。先週の土曜に猛吹雪を喰らった函館の街は、既にして白く染まりかけているが、2日の間に排気ガスや泥の汚れが雪に付着し、それは白と言うより茶色であった。
 車輌を積み込む為の可動桟橋を吊り上げるクレーンの支柱の向こうに、その船は静態保存されていた。
元函館桟橋付近に生態保存されている摩周丸
 青函連絡船・摩周丸。
 見ただけで引き返そうと思っていたのだが、何と岸壁には階段が設けられ、中に入れるようになっているではないか。
 僕は基本的にこの旅をするにあたって、全く事前調査をせずにやって来たので (何しろ数日前までは北海道に行く事すら決めていなかったのだから) 摩周丸がそこに係留されている事は、以前来た際に知っていたのだが、中が博物館のようになって、当時使用されていた物品が展示されているとは思わなかった。

 中は、青函連絡船の歴史が一目で分かるコーナーや歴代の全青函連絡船の写真、機関の仕組みや客室の内装など、青函連絡船のありとあらゆる点が紹介されている。
摩周丸船内にて
 中でも、絶対に忘れてはならないのが、昭和29年9月26日の台風15号 (洞爺丸台風) で函館湾に座礁・沈没した、洞爺丸の事である。
 9月26日の夕刻に函館を出航予定だった洞爺丸だが、折からの強風の為、出航は大幅に遅らされる予定だった。しかし出航時刻の頃から、函館では雨も止んで雲も切れ、夕焼けすら見えたのである。こうして、青森行き洞爺丸の出航が決まった。これが『嵐の前の静けさ』だとは知らずに。
 これを気象学的に解説すると、実はこの台風15号は、日本海上で温帯低気圧に変わっていたのではないかという説もある。温帯低気圧と言えば、台風に比べて随分と弱いイメージを受けるが、なかなかそうでもないのだ。現に、この台風は温帯低気圧に変わる直前まで中心気圧が968hPaだったのに、温帯低気圧に変わった頃から急激に中心気圧が下がり始め、洞爺丸が沈没した時刻には、実に956hPaまで下がっていたというのだ。
 この時台風15号は日本海を約100km/hという、台風とは思えない高速で北海道を目指して北上し続けていた。観測史上、このような挙動を示した台風は、この台風15号くらいのものだという。僕は天気図を描くのが好きで、大型台風が日本に接近してきた時は、ラジオで一日三回流れる気象情報を毎回聞いて天気図を採るが、確かにそのような台風は見た事もない。
 しかも不運な事に、予報では津軽海峡を抜けると思われていた台風15号は、北海道の西岸にあたる渡島沖を抜けるように進んでしまい、その上、オホーツク海上に発達した高気圧のせいで台風の速度は北海道に接近してから急激に落ち、その結果、津軽海峡は非常に長時間に亘って、台風15号の危険半円内に入る事となってしまったのである。
 さらに、函館の街で観測された夕焼けについては、台風15号が温帯低気圧に変わったが為に前線を伴い、その前線が引き起こした悪戯だったと考えられる。閉塞前線の付近では晴れ間が覗くことが多いのだという。しかし、洞爺丸の船長はその晴れ間が、台風の目に入った為と考えた。台風の目に入ったのであれば、これから吹き返しが来るが、危険半円に入る事は無いだろうから出航しても大丈夫だろう、それが、この悲劇を引き起こした最大の要因だった。
 気象観測がかなり発達した現在ならば、台風の位置や予想進路はかなり正確に、それもほぼリアルタイムで分かるのでこうした事はまず起こらないが、当時の気象観測技術では台風の位置を伝えられるのは、観測から数時間後であった。これが、函館の夕焼けを引き起こしたのが決して台風の目でなく、温帯低気圧の中心から東に伸びた閉塞前線によるものである事に気付かせない理由となったのだ。
 出航直前から、また雨が降り始めて風も強くなったが、これからは可航半円に入ると考えた洞爺丸は函館港を出港した。しかし、あまりに強くなり始めた風のせいで、港を出る事すらできずに出航から僅か20分で投錨する。もしもこの時、岸壁まで引き返しておけばと思わずにはいられない。
 しかし、実はこれは軽率極まりない発言なのだ。実は、函館港は港内でさえ風速40m/s、瞬間最大風速55m/sという猛烈な風が吹き荒れており、とても岸壁に戻るという事ができなかったのである。このような突風吹き荒れる中で3400トンもある船体を岩壁に寄せる事は、自殺行為でしかない。岩壁に近寄った瞬間に突風に煽られでもすれば、それは船体が岩壁に激突して大破沈没する事を意味する。現に、洞爺丸が出航する少し前に函館港に到着した第11青函丸は、岩壁に係留するまでに何度となくやり直しをしている。船を岩壁に係留するためのロープは、船から岸に居る係員に向かって投げられるが、幾度投げてもそのロープが風に煽られて岸に届かなかったのである。因みに、この時の平均風速は20m/sであった。20m/sでさえそれなのだから、40m/sでは着岸など到底不可能である事がお分かり頂けると思う。
沈没した船の位置
 さらに、洞爺丸はあまりに強い風と波の為、船を風上に向けるのに必死で、とても回頭などできなかったのだ。この時、台風は函館の西方海上を進んでいたので、風は南。それも、閉塞前線による猛烈な波雨を伴う風だった。
 函館港内に投錨していた洞爺丸は、次第に強まる風と波によって、走錨現象を起こし始めていた。走錨現象とは、船を定位置に固定できるはずの錨が、風と波の力に負け、結果として船が漂流してしまう事を言う。
 洞爺丸だけでなく、函館港内に投錨していた他の船も多くが走錨現象を起こしてしまい、互いに衝突しないように操艦するのがやっとであったという事だ。
 初めに沈没したのは第11青函丸だった。防波堤の外に投錨していた事が祟り、猛烈な南風によって生じた高波を船腹に真横からまともに食らって船体を3つに折られ、あっという間に沈没してしまったのだ。他の船も、多くが波風に煽られて転覆するなどした。
 高波は洞爺丸にも大きなピッチング (船体に対して縦方向の揺れ) を与えた。それによって洞爺丸は後部甲板……つまり、車輌積み込み口から浸水、その水はローリングによって甲板内を波のように動き回り、船底のボイラー室に流れ込んだ。
洞爺丸台風の進路図
 天井からの滝のような落水に、ボイラーはダウンして洞爺丸は機関停止、さらには発電機室も浸水して船内が完全に停電した。これで洞爺丸は操船する術を完全に失い、風と波の思うが侭、ひたすらに海上を彷徨うばかりになってしまったのである。
 覚悟を決めた洞爺丸の船長は、函館港に程近い七重浜に座礁する事を決意した。洞爺丸の喫水から考えて、岸から約500mの付近に座礁するつもりだったのだ。しかし実際は、予定位置に達する手前、岸から800mの地点で漂砂に乗り上げて座礁した。折からの南風のせいで、漂砂はほんの短い間に約5mも堆積していたらしいのである。これが運の尽きだった。漂砂は流動性に富むので、座礁したというのにまだ走錨が止まらなかったのだ。洞爺丸は出航から4時間後の22時43分、傾く洞爺丸を支える唯一の命綱であった左舷の錨鎖が切れるとともに、とうとう横転して七重浜から600m程沖に沈没したのであった。
摩周丸から見た函館の夜景
 翌日の朝、七重浜には無数の水死体が折り重なるようにして打ち上げられ、この世の地獄とも言うべき様相を呈していた。死者は1155名と、海難事故ではわが国最大、世界でもタイタニック号に次いで2番目という規模であった。

 17時の閉館ギリギリまで、僕は船内をくまなく見学した。多くのメモを取ったが、どれも知っておくべき事ばかりである。窓口の職員さんにお礼を言って船を出た。
 岸壁を歩き、もう一度摩周丸を振り返ろうとした、ちょうどその瞬間だった。心の底にまで響いてくる摩周丸の長笛が、函館の街にこだました。
 既に街には灯が点り始めているが、17時を知らせるその汽笛は暮れかけた街の中をどこまでも抜けていくようであった。電飾が煌々と輝き始めた摩周丸に向かって、僕は一礼し、汽笛の余韻を逃さぬように背筋を伸ばしながら、駅へと歩いた。


谷地頭駅に到着した市電
 もう日は暮れかけているが、絶対にしたい事がある。暮れかけた市電の函館駅前駅から谷地頭(やちがしら)行きに乗り込んだ。
 前回北海道に来たのは去年の秋だが、その時の僕の目的はJR北海道完乗であり、ついでに、と言っては申し訳ないが、札幌地下鉄やふるさと銀河線を含め、北海道の私鉄路線も殆どを乗破した。しかし、ほんの僅かながら未乗線区が残ってしまったのである。それが今から行く、十字街−谷地頭間であった。あの時も函館の街は薄暮で、昼間に津軽線と江差線を乗破した僕は、十字街駅から函館山のロープウェイを見つめながら、実に悔しい気持ちでこの北の大地に僅か1.4kmばかり残ってしまった未乗路線を見捨て、函館駅に引き返したのを覚えている。
 十字街駅は、僕の記憶と同じ、函館山を見通す交差点の手前にあった。いよいよ、北海道の鉄路を完乗する瞬間がやってくると思うと、久しぶりの感動がやってくる。JRを完乗して以来、初めての新乗路線である。
 路面電車特有の堅い揺れに身を任せながら外を見入っていると、あっという間に宝来町・青柳町を過ぎた。さぁ、最終区間だぞと思うが早いか、もう電車は減速し始めて停車した。終着の谷地頭駅である。市電は駅間の距離が短いから、完乗を前にして身構える暇も無い。しかし何はともあれ、これにて目出度く北海道全線完乗である。

 運転士さんに料金を払って市電を降り、駅前にあったスーパーで晩飯を買うと、もう街は暮れていた。
 しかし、行きたい所には行っておく事にする。今回の旅は旅程が無い代わりに、行きたい所は山のように多いのだ。かと言って、その全てに行けるはずもなく、行ける分だけ全てに行こうという感じである。
 まずは立待岬に行った。ここには以前に一度来た事がある。中学一年の時、家族旅行で北海道に来た時の事だ。あの時は行き帰り共に飛行機だったし、バスツアーだったから観光地を効率よく巡ったが、それだけの旅であった。やはり、旅は自分で企画・立案し、自らの足で土地土地を歩かねばならないものだと思う。
 今日は夜ではあるし、前に来たのが7年前ではあるし、朧気な記憶の中の立待岬とは全く違った。あの時は夏であり、岬には浜茄子が咲き乱れていたので、関心がそこにばかり集中していたのだろうか、背後に聳える奇岩の事などは気に留めていなかったらしく、全く覚えていなかった。初めての場所に来たような気持ちで案内板を読み、闇の中に浮かぶ大岩を眺めた。
 沖には数多くの漁船が出ていて、その漁り火が眩しい程に輝いている。返り見れば函館山の展望台と街灯が闇に点々と浮かんでいる。さして寒さは感じないが夜なので辺りに人は居ないし、来る途中には墓場を通ったので、妙なものが辺りに憑いていないかも気に掛かる。それなりにゆっくりとは見たが、心落ち着く事はできずに退散した。
 その墓場には、かの石川啄木も眠っている。しかし、ゆっくり見る勇気などとても無い。行きも帰りも人っ子一人通らないので、逃げ出したくなる衝動を堪える。ようやく谷地頭に帰り着いた時には、神経が擦り切れてしまったような感覚を覚えた。
函館山から眺めた百万$の夜景
 このまま函館駅に帰るにはまだ早い。こうなれば7年前の足跡を辿るべく、函館山にも登ってみようかと思う。谷地頭駅から神社の中などをロープウェイ乗り場まで歩き、高い料金を払って山頂に上った。
 あの時はバスで上ったが、途中で渋滞に巻き込まれて身動きが取れなくなり、仕方なく、乗客は細い山道を歩いて上らされたと記憶している。しかし昔も今も、100万$の夜景は何度見ても良いものである。先程見学した摩周丸が、黒い函館港の上で光彩を放っている。函館は典型的な陸繋砂州であり、地形学的にも山の上から見下ろしていると面白い。
 折角高い料金を払って上ってきたのだから、時間の許す限り居たいが、元々それ程時間が余っている訳ではないので1時間弱で退散する。だだっ広い割には椅子が一つもないという、大都会の通勤電車を思わせるロープウェイで下山し、人気の無くなった函館の街を駅まで歩いた。
これが鰊みがき弁当だ
 さて今夜は、ここから一気に最北端の稚内まで北上しようと思う。北海道最南端の都市・函館から最北端の稚内まで、鉄路にして714.9km。これは、京都−博多間より長い。
 函館を19時44分に出るスーパー北斗21号に乗れば、札幌22時56分着、僅か6分という好接続で稚内行きの夜行特急利尻に乗り換えて、翌朝6時には稚内到着である。表定速度は約70km/hだから、僕にとっては速すぎず遅すぎず丁度良い。
 ご飯の上に鰊の付け焼きが乗った「鰊みがき弁当」を食べ、車内販売で「大沼だんご」を買い、熟睡するうちに札幌駅到着。外へ出る暇もなく利尻に乗り換えると、またすぐに睡魔に襲われて眠った。

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