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4日目 … JR全線完乗前日
 2003年9月5日、今日の行程は、只見線の初電からスタートだ。只見線は、このJR完乗旅行の旅程を立てるにあたって最も苦労した点で、まず、全線に亘って日のあるうちに走る列車が上り下り共に2本ずつしか無く、日中には臨時列車が運転される事もあるが、この日はそれも無い。
 さらに、上りも下りも、1本目の列車に乗るには只見線の起点及び終点の駅である会津若松か小出に泊まるより他にない。つまり、夜行列車を含めて、只見線の初電に連絡する列車がないのだ。
早朝の会津若松駅
 只見線で僕は、ある事をしようと決めていた。それは、只見線の駅名看板撮り潰しだ。つまり、只見線全駅の駅名看板をカメラに収めようというのである。
 乗車時間が4時間を超える只見線で、こんな事をしようというのは非常に酔狂な話かも知れないが、こうでもしないと途中で眠ってしまいそうだったのだ。最後まで残った100km超え残存路線であるのに、その只見線を殆ど寝て通過しました、では申し分が立たない。
 昨日仙台駅で買ったこだわり弁当各驛停車を食べながら、濃い朝靄の磐城路を往く列車の景色に見入る。
仙台駅の各駅停車
 水田に霧がかかった光景は、何処までも異様である。地平の果てまで続きそうな灰緑色に、薄灰色の低い空がのしかかり、全体として何だか分からない眺めだ。
 駅弁の味も申し分なく、特にこの時初めて食べたホヤの味は未だに忘れられない。
 ところで、駅弁は買ったその日に食べるべきものなのだろうが、昨日は何しろ美味い駅弁が数多い地域を通ってきたので、一日では食いきれない数の駅弁を買ってしまった。それに対し、今日通るのは美味い駅弁の数が非常に少ない若しくは駅弁を売っていない路線ばかりである。よって、昨日の駅弁を二つ今日の為に取っておいたのである。
朝靄の向こうに、太陽の鈍い光が
 西若松で、会津鉄道の線路が左に分かれていった後は130km以上に亘って、分岐する路線も無い。
 6時37分、只見線の途中駅で唯一みどりの窓口がある、会津坂下に到着。ここで、対向列車と行き違う為に約6、7分の停車。向かいに停まった列車には、多くの高校生が乗車してきた。僕は荷物を全て網棚に上げ、下車印を捺してもらう為に小走りで列車を降りた。
 タブレットを肩から掛けた駅員さんに捺印してもらい、駅前に出る。靄がかかった駅前広場には、四方八方から高校生たちが自転車で集まってくる。発車時刻ギリギリに、大慌てでやってきた女子高生が、無事会津若松方面行きに乗ったのを見届けてから、僕も小出行き車内に戻った。
会津坂下駅で上下列車が行き違う
 会津坂下から3つ目の会津柳津には、昔この辺りで活躍していたのであろう、C11型蒸気機関車が、誰もいない駅前に静態保存されていた。駅舎も、貨車の廃車体を流用しているのが、いかにもローカル線らしくて好ましい。

 ところで、只見線には、旧国名である「会津」や「越後」を冠した駅名が非常に多い。特に、「会津」を冠したものは会津若松−只見間の88.4kmに17駅もあり、また、只見の手前では「会津」が5駅連続する区間もある。
 開通した時期が遅かった為、駅名として付けたかった名前の多くは既に他に存在し、仕方なく旧国名をかぶせた、というのがその歴史だろうか。
 他にも、気仙沼線には「陸前」、米坂線には「羽前」「越後」、越美北線には「越前」、土讃線には「土佐」の付く駅名が多く見られるが、理由は普く同じであると考えて良い。
だんだん急峻になる地形
 会津桧原駅と滝谷駅の間で、深い谷に架けられた橋梁を渡る。既に地形は険阻になりつつあり、只見線のサミットである只見−田子倉間ではどうなるのかと、今から楽しみになる。
 しかし、只見川の電力開発は有名である。つまり、只見川には多くのダムが造られ、水力発電所が点在するのだ。
 ダム湖は、川が造り出した急峻な地形を台無しにしてしまう。細く白い水が、岩の間を(せめ)ぎ合いながら流れ下る様子は、見ていて美しいものである。
 しかし、ダムができてしまってはその光景が見られない。海松色の澱んだ水が、悠々緩々と広い湖面を成しているのみである。会津桧原からは、しばらくそんな只見川に沿って走る。
針葉樹の陰がダム湖に映る
 会津宮下で上り列車と交換した時点で約10分の遅れ。会津坂下では5分も遅れていなかったように思うから、何かあったのだろうかと危惧したが、これは杞憂に終わった。恐らくは、濃い霧の影響で少し徐行運転をしたか何かだったのだろう。
 会津中川で、今は使われなくなったホームのコンクリートに「1953-7」と書かれた札が貼られていた。この付近は、戦後10年を待たずして開通していたのである。しかし、只見線の歴史は深い。この様子なら、只見線の全通は昭和30年代かと思いきや、もう少し先に横たわる“六十里越”のせいで、昭和46年にまで延びてしまうのだ。
会津川口駅で3度目の交換待ち
 8時ちょうど着予定の会津川口にはやはり約10分遅れで着いた。本来ならここで交換待ちの為10分停車するが、既にその出発時刻であり、対向列車も到着していたので、遅れを挽回しようとすぐに発車した。
 本名(ほんな)を過ぎると、例の「会津」を冠した駅名が5連続する区間を過ぎ、支流に沿って拓けた湿地を緩やかにカーブする空中回廊で駆け抜けると、いよいよ線名の由来となった只見駅に到着した。

 3分停車の間に駅前まで出てみる。標高は372mとあり、半袖だとちょうど涼しいくらいの気候だ。
空中回廊で一気に川を渡る
SL会津只見号運行歓迎の横断幕が張られた駅舎で下車印を捺してもらってから再び列車に乗り込む。遅れはすっかり取り戻し、ディーゼルカーはエンジン音も快調に、六十里越に挑んでいった。
 この辺りは冬の積雪量も凄まじい場所で、鉄道開通以前は冬の度に、まさに陸の孤島と化していた。しかし全長6359m、在来線では日本第8位の長さを持つ六十里越トンネルが開通し、ようやく只見線は全通したのであった。

 それだけに、列車は唸りを上げて勾配を上り、田子倉ダムの湖面に臨みながら走って、トンネルの中に入ったのかな、と思うところで停車。そこが田子倉駅であった。
 付近には車窓から見る限り建物など無く、人影も見当たらない。夏には川遊びの客でもいるそうだが、今は登山の客すらいない。
田子倉ダムの湖面
 トンネルだと思ったのはスノーシェード (雪覆い) であった。駅舎までは階段を上らねばならないそうであるが、なかなか雰囲気のある素晴らしい駅で、是非一度途中下車してみたいと思う。
 田子倉の次の大白川までが、昭和46年開通区間である。つまり、たった2駅区間を残して両側が開通した状態が長く続いていたのである。無論、2駅区間と一口に言っても、その2駅は20.8kmも離れているのだけれど。

 大白川でまた列車の交換をしている間に、駅舎まで走ってスタンプと下車印を求めた。いくら対向ができる機能を持っているとは言えこんな小さな駅なのだから、有人で、しかもスタンプまであるとは見上げたものである。駅とはこうでなくてはいけないのだ、という威厳さえも感じられる。
大白川駅の傍を流れる渓流・破間川
 大白川の次の柿ノ木は、只見線全38駅中、僕の乗る423D列車が唯一通過する駅である。しかし、駅名看板撮りつぶしを標榜した以上、この駅に付いても当然、駅名看板を撮らねばならない。
 しかし、ホームが進行方向のどちらにあるか、ホームのどの辺りに看板があるのか、そもそも看板そのものがあるのかなど、問題は山積みだ。時刻表の、柿ノ木駅に停車する列車の時刻などから、柿ノ木駅の通過予定時刻を割り出し、通路に立ってカメラを構えておく。どちらかの窓にかぶりついていると、反対側にホームがあった際に対処できなくなる為、このような位置で構えるのだ。
 予想時刻とほぼ同時に、列車は柿ノ木駅をやや徐行しながら通過し始めた。ホームは右にある。右側のボックスシートにダッシュするや否や、柿ノ木駅の駅名看板が車窓を横切っていく。僕はそれにカメラを向けてシャッターを切ったが…。
 結果は右の通りであった。
唯一の通過駅、柿ノ木駅の看板
 新潟を舞台にした当時のNHK朝ドラ「こころ」の宣伝ポスターが無人駅の待合所に貼られているのを見たりしているうち、10時12分、定刻に列車は小出駅に着いた。4時間12分、135.2kmの只見線の旅もこれで終わり。僕は最後の駅名看板を撮ってから、改札を出た。

 小出は、信濃川の支流に当たる魚野川と、六十里越を越えてから只見線が寄り添ってきた破間川(あぶるまがわ)の合流地点に拓けた街で、駅は魚野川を隔てて市街地と反対側にあるので、旅行貯金に行った際に魚野川を渡った。
魚野川の流れ
  既に、広くゆったりと流れている魚野川は、大白川の辺りで渓流にしか見えなかったあの川とは、似ても似付かない。この川はほんの10km先、越後川口で、日本最大の河川・信濃川と合流する。
 旅行貯金を済ませてからスーパーに寄って買い出しをし、いつもの如くトマトや低脂肪乳を買ってから、魚野川の上で広々とした河瀬を眺めた。この辺りは冬、日本海からの北西季節風をモロに受けて毎日のような雪に見舞われ、日本有数の豪雪地帯になる事は小学時代から知っているが、それでも、眼前に広がるこの景色が雪に埋もれてしまう姿は想像できない。今日は見事な秋晴れである。
昭和38年冬、大豪雪の写真
 小出駅に戻って、越後湯沢行きを待つ間、駅舎に展示されていた只見線沿線風景の写真を眺めた。中でも目を引いたのは昭和38年冬の大豪雪の写真だ (右上)。丸4日で客車の屋根に降り積もった雪は目測1m。凄まじいものである。この雪で、同列車の乗客373人が4日間に亘って足止めを喰らい、仕方なくこの駅で泊まったそうである。
 そう言えば、先程渡った橋の袂には「流雪溝発祥の地」の碑が建っていた。無理もないだろう。聞いた話によれば、屋根の雪下ろしをしていて、ようやく全部下ろし終わったと思ったら、始めの方に下ろした部分にはもう立派に雪が積もっているという。大変な作業ではあっても、屋根の全面を下ろすのに1時間とはかからないだろうから、その積雪量が伺える。
昭和46年、只見線全通時のセレモニー
 さて、上越線の鈍行水上行き車内で考えた。このまま乗っていると、列車は川端康成が「雪国」の中で描いた「国境の長いトンネル」こと清水トンネルを抜け、前後に2つのループ線を通るはずだが、その手前の越後湯沢で降りてみるのも面白い。どちらにしようか迷ったが、今回は涙を飲んでループ線を諦め、越後湯沢で途中下車する事にした。
 今晩にはもう東京に着いていなければならないと言うと、今頃こんな所で途中下車しても大丈夫なのかと思われるかも知れないが、そこは新幹線を利用しようと思う。越後湯沢はこれで二回目で、前は去年の年末、ガーラ湯沢を乗りに来た際に途中下車したが、駅弁屋等しか開いておらず、仕方なく、雪が積もった駅前で融雪溝に雪を蹴落としまくっていた思い出しかない。
上越線の普通列車水上行き
 今回の目的は、駅ビル内にある「ぽんしゅ館」だ。日本酒を、愛情と親しみを込めて呼ぶと「ぽんしゅ」。越後平野で穫れた米は、日本酒にすると淡麗辛口の美しい味わいに仕上がるので、数多くの蔵元がある。その酒を一同に会させたのがこの「ぽんしゅ館」なのだ。
 まず入って驚くのは、あちこちに「泥酔して寝ている人形」がある事。右の写真の人形も、酔って「反省」をしているのである。
 この奥にあるのが、酒風呂「湯の沢」。天然温泉の湯に、お酒を混ぜたお風呂は何とも贅沢なもの。早速入ってみると、脱衣場から戸を開けた瞬間にそれらしい香りがする。勿論、ホントに酒臭い訳ではないので、酒が飲めない人や子供でも安心だ。
越後湯沢駅ビル内にある「ぽんしゅ館」
 特筆したいのは、売店でも売られている檜の炭を使ったボディーシャンプー。本当に檜の何とも言えない香りが漂うシャンプーで、心までリラックス。
 湯の温度は少し高め。特に、表の利き酒スペースで一杯引っ掛けてきた人は、あまり長湯すると危険な場合もあるので注意した方がいいかも知れない。

 風呂を出て、利き酒スペースを覗いてみたり、数百種の酒を扱っているという売店で土産用に「駒子雪」という酒を買ったり、越後のコシヒカリを使用しているというアイス最中を食べたり、2時間は居たのに随分忙しかった。

 先述の通り、ここからは上越新幹線で高崎まで向かう。乗ったのは新型MaxのE4系。醜い奴だが、高速列車では最大定員世界一を誇る車輌である。
数多くの銘酒が並んでいる
 自由席は3&3シート、つまり片側3列のぎゅうぎゅう詰め。座席もリクライニングしないのでこんな時にはなるべく乗りたくない車輌だが、朝の通勤時間帯、首都圏の壮絶な混雑を緩和するにはこの方法しかないのだろう。出勤時、これから仕事というのに立たなければならないよりは、少々窮屈でも座っていたいと思うのは誰もが同じだろう。
 今の時間では勿論、3席を独り占めして大清水トンネルに入った。しかし、こんなのはまだまだカワイイ方で、前の席を反対に向けて6席独り占めをしている豪傑も居た。
 この車内で今買った「いくらたらこめし」を食べる (ちょっと寄り弁になっているのは僕のせいである)。何と言ってもこの辺りは米が美味いので、駅弁のレベルも自然と上がる。この駅弁も素晴らしい味であった。
醜いが力持ち、MaxのE4系
 尚、4〜5人グループに是非お勧めしたいのが、完全予約制の「ジャンボいくらたらこめし」。¥4500という金額ではあるが、ホントにデカイ!その上に一杯のいくらとタラコを載せた駅弁は、この金額も納得のはず。僕は一人旅が原則なので食べる機会はなかなか無いが、機会があれば食べてみたい駅弁の一つである。

 高崎からは在来線に乗り換えたが、その車内で僕は例によって熟睡してしまい、気付いたら赤羽を出たところであった。
越後湯沢の「いくらたらこめし」
 これは大きな失敗をしてしまった。実は、僕はまだ東北本線の一部である赤羽−田端間に乗っていないのだ。今ここを乗らないと、明日、予定通り完乗は成し遂げられない。しかし同時に、湘南新宿ラインの新線である大崎−西大井間や東京駅を19時17分に発車する湘南ライナー3号に乗らねばならないとの制約もある。果たして間に合うのか?
 上野から赤羽まで京浜東北線で引き返して東北本線完乗。残存線区は3。
 そのまま京浜東北線の大船方面行きで引き返し、新橋駅で向かいのホームにほぼ同時に停まった山手線に乗り換え。それで大崎に向かう。
 これで、大崎から西大井までの湘南新宿ライン専用新線に乗れば事は済むはずだった。ところが、ここでもしくじり、乗れるはずだった列車に乗れず、次の列車を待っていては東京駅の制約に間に合わない事が発覚し、急いで予定を組み直す。品川に戻って横須賀線で西大井へ。ここで上りの湘南新宿ラインに乗り、ようやく西大井−大崎間の短絡線乗破。残存線区は2、営業キロにして17.6kmとなった。
 東京駅には19時少し過ぎに着いた。まだ湘南ライナーは入っていなかったが、ここから旅を共にした、山手線209系さんは既にホームの停車位置で、2人分のライナー券と駅弁を持ちながら並んでいた。

 ここまで来ると、さすがに僕も緊張する。我が心の師・宮脇俊三先生は、新乗線区に乗る度に「得も言われぬゾクゾク感を感じる」と言っておられるが、僕は今まで、そこまではっきりとしたものは感じた事がなかった。勿論、鉄道に乗るのは楽しい事で、乗っている事に対して気分が高揚する事は毎度の事だけれど。
湘南ライナー3号
 乗客はそれほど多くなかった。品川の次は藤沢まで停まらないという暴走列車だと言うと、横浜はどうするのだと思われるだろう。実際に横浜駅を通過する湘南ライナーもあるのだが、この列車はそうでない。新子安付近から新横浜貨物線と呼ばれる貨物列車専用線に入り、横浜を経由せずに藤沢に至るのだ。この貨物線は東海道本線の一部という事になっており、ここが未乗なのである。
 山手線209系氏と、ビールを飲みながら東京駅のあなご弁当を食べているうち、列車は長いトンネルに入った。時刻表の巻頭地図などには載っていない新横浜貨物線を通っているのである。
 時刻表には載っていないが、ここに東海道本線の支線となる別路線が存在する事は、時刻表を眺めていれば分かる。時刻表の東海道本線の頁を見てみると、品川を出た後は戸塚の手前まで、東海道本線非経由となる列車がある事に気付くだろう。僕は小学校に入る前から、この路線の存在には薄々気付いており、天下の横浜駅を通らないという恐れを知らぬ列車が、どうワープして戸塚の手前でまた戻ってくるのか、地図などを捲っては想像を巡らせたものだが、実際の経路をはっきりと知るのは、高校時代になってからである。
 昔話はさておき、この列車たちが通るのが、この新横浜貨物線なのだ。
 新横浜貨物線は、鶴見を出た後しばらく東海道本線と併走するが、東急の生麦駅付近から分岐してトンネルに入り、これを抜けたところで横浜線の大口−菊名間をオーバークロスする。さらに長い港北トンネルに入った列車は住宅街の下を突っ切って、第三京浜道路の保土ヶ谷料金所付近にある、横浜羽沢貨物駅に到達する。ここは東海道新幹線とも接しているが、何しろ夜の為に貨物駅や新幹線の姿をよく見る事は出来ない。
 再びトンネルの連続区間に入った列車は、相鉄本線の上星川駅付近をオーバークロス、猪久保トンネルという少し長いトンネルを抜けて、東海道本線の東戸塚駅付近で合流するのだ。横浜の市街地を避けて、ぐるっと山手を回るので、距離的には少し長いようであるが、神奈川西部から東京に通勤しておられる方々からすると、この路線の存在は大きいだろう。横浜から新たに乗客が乗ってこないというだけで、圧迫感も薄れる。

 正に今、残存線区が2から1になろうとしているのだと思うと、高揚感を抑えきれなかったが、車窓は横浜北部の山をぶち抜いたトンネルであるから真っ暗である。
 それでも、これを抜けると、いよいよ最後である。3年半の道程は成就する。そう思うと、鳩尾の辺りが痛みを帯びたように熱くなってくるのだった。
 20時11分、列車は藤沢に到着。新乗線区は通過区間だったので、いつ残存線区が1になったのかははっきりしなかったが、ともかく藤沢にて209系氏と握手を交わした。
 209系氏の奢りで、初めて『特上』鰺の押し寿司をご馳走になる。いつもは「小鰺の押し寿司」にしか目が行かないが、いい記念になった。
 宮脇俊三先生が国鉄完乗直前になさった計算を真似てみると、これで残存線区のキロ程は山手線代々木−原宿の1駅区間1.6kmのみ、乗破率は99.99195パーセントとなった。宮脇先生が『時刻表2万キロ』に記しておられる通り、ここまでくるともはやこの作業は「数字の遊びでしかない」。
大船駅の特上鰺の押し寿司


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背景 : 未成年JR完乗旅行の思い出





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