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以上が、行き帰りの行程である。 行き帰り共に同じ表に入れてしまったので、分かりにくいかも知れないがご容赦願いたい。 青春18きっぷのみでの 初上京ルート 草津では、ただ野洲行き新快速から長浜行き新快速に乗り換えただけで、途中下車はしていない。安土付近では高校時代から見慣れた、近江盆地の水田の中を走る。稲の穂はいよいよ緑色で、勢いよく真上に向かって伸び育っている。 夏だ。 こうして車窓の「夏」を見る度、高校2年の夏の、青春18きっぷによる日帰り旅を思い出す。制服姿で、夏の中国地方を片っ端から乗り潰した。あの旅路がなかったら、未成年JR完乗への旅も、今ほど余裕のあるものにはならなかっただろう。今思えば、あれが僕の「鉄道の原風景」になったのかも知れない。昔から、完全に「模型鉄」として育った僕は、鉄道で旅に出た体験が非常に少ない。尤も、鉄道に乗るのは昔から大好きだったし、写真を撮るのも好きだった。だから、その頃の鉄道に関する思い出が無い訳ではない。しかし、本格的に鉄道による旅に目覚めたのが高2であり、それ以前に乗っていた鉄道などは雀の涙程のものであったから、強く記憶の底に刷り込まれなかったのであろう。 あの頃見た何気ない車窓風景は、今でも胸にしっかり留まっている。殊に夏の青春18きっぷによる旅路は、格別な思い出となった。小川のせせらぎ、遠くなってゆく小さなローカル駅、山の頂から天にそびえ立つ驚くほど白い雲、濃緑を放つ山の木々。その全てが、僕の鉄道の原風景になったのかも知れない。高校2年生で「原風景」がやっと確立したというのも変な話だが、自分を客観視すると、そういう事になるのではと思う。 夏の関ヶ原も懐かしさを憶える。下りの特急しか通らない、単線の別線が別れてゆく。新幹線とクロスする。辺りは、日本最大の交通ルートである東海道の一部とは思えない。水田地帯が広がり、夏の陽光が車窓に目をやる者に眠気を誘う。長閑な夏の午後だ。僕はいつしか微睡んでいた。 先程分かれていった支線と再び合流し、美濃赤坂方面からの支線とも合流すると、大垣は近い。 ここで再び乗り換え。今度は豊橋まで乗り換え無しだ。席も空いていて、窓側に座るも、すぐに空が泣き始めた。雨は短い間しか降らなかったが、ぐずついた天候が続く。 空がまた泣き始めた。うっとうしい天候である。右手を、新幹線がとてつもない速さで追い抜かして行く。100系があまり見かけられなくなったのは勿論の話であるが、300系までが「こだま」として走っているのを見ると時代の速さを感じずにはいられない。 ついこの間まで、300系はのぞみの代名詞であった。思えば、「何系」という鉄道用語の表現が広まったのは、300系の出現からではなかったか。300系がのぞみとして使われ始めたが、量産された300系はすぐにひかりにも使われ始めた。そのひかりも、最初はごく少数だったから、時刻表に必ず「300系車輌で運転」という記述があったものであった。今では、500系のぞみと700系のぞみを区別する為、何系という表現はごく一般にも広まったが、これは300系の功績でもあると言えるだろう。 尚、途中の西鹿島から南へは、遠州鉄道が分岐しており、やはり東海道本線と浜松で連絡する (但し、遠鉄の駅名は新浜松)。 新居町から弁天島、舞阪にかけての辺りは、東海道本線の鉄路600km弱の中でも、特に僕が好きな景色が広がる。浜名湖が海とつながる、その汽水域の真上を通り抜けながら、遠く、もっと海に近い所を通る自動車専用道路の美しい橋梁を眺められるのだ。大型の船舶が下を通行出来るよう、橋梁の中央部はかなりの高さである。車窓から眺めるに、橋が大好きな (笑) 僕には堪らないものがある。今日は雨だったが、車窓に滲む白い橋の姿を見る事が出来た。 ところで浜松といえば、ウナギを喰わずして語る事は出来ない。僕も当然、浜松駅名物のうなぎめしは、何度も食べた事がある……などと言えたら、どんなに良いだろうか。実はまだ、一度も食べた事が無い。さぞ美味しい事であろう。今回も乗り換え時間がたった1分の為、とてもとても買う時間など無く、静岡行きに乗り換えた。 因みに浜松駅の駅弁では、ひつまぶしも有名である。これは、ウナギ丼の発展形とでも言えるもので、まずは何もかけずにウナギ丼を味わい、続いて薬味をかけて、最後にお茶をかけて頂くという、一つで三回美味しい駅弁である。勿論、お茶は別売りだが。 どんどん夕闇が迫ってくる。雨なのでどんよりと暗く、すれ違う列車の前照灯が、時折眩しく目に映るだけだった。 静岡でも、また1分乗り換えだ。東海道の上京は、かくも忙しないものであった。しかし乗り換えで余計に時間を取ってしまうよりずっと有り難いが。この時間帯になると、また、ここまで東に来ると、人は減ってくるし列車の編成も長くなるし夜も更けるしで、ゆったりと座る事が出来た。 三島で、静岡を後発した熱海行きに乗り換える。函南を出、一駅区間にしてはだいぶ走って熱海に到着。この辺りは東海道本線の中でも、是非とも昼間のうちに通ってみたい区間である。僕は既に東海道本線には乗った事があるが、未だにこの区間を昼間通った事はない。 熱海には新型あずさ用車輌である257系が「湘南ライナー」の電光を灯しながら入線していた。257系を見るのは初めてであり、「あずさ」として見るより「湘南ライナー」として見る方が早いのは、東海道本線を普通列車のみで上京する者の宿命とも感じて取れた。 さて関西人の感覚からすれば、この辺りまで来れば東京がもうすぐであると思えてくる。真っ暗な海沿いの東海道をしばらく走ると、いよいよ乗客が増えだしてくる。窓から見えるネオンの数も、また派手さ加減も、だんだん多く、高くなる。 乗っている列車は、今夜、これからムーンライトながらに使われるのだろう、373系である。指定席代も払わずにこんな列車に乗れるのは、誠に有り難い。クロスシートというだけでなく、特急列車として使われるだけあって、シートピッチも普通車輌と比べればかなり広く、シートも座り心地よい…と、こんな事を書いていると、僕が普段、いかに特急に乗っていないかが分かってしまうかも知れない…。 さて、車窓にはネオンしか見えないから、仕方なくこれからの旅程の確認などをしていると、曖昧に東京に着いた。天候はやはり雨である。 かなり混雑した京浜東北線の列車に乗り込む。平日の、それも水曜日の夜だというのに、もの凄い人である。あんたら、もうエエ時間やねんから、早よ帰って明日の為に寝なはれや、と言いたくなる。まあ、大阪でもこんなモンなのか。今まで、あまりこういう時間帯に、都会の近郊電車を利用した事のない僕にはどれが普通なのか分からないが。 だが、健全ではない気がするなぁ。でも、たまにはこんな列車に揺られるのも悪くない。ただ、僕は興味本位でこう言っているだけの事なのだが…。 やがて、大きなヘッドライトが見えたかと思うと、4号車から始まる、ムーンライトえちごの6輌編成が、ホームに滑り込んできた。 ムーンライトえちごでの車中泊は、これでまだ2回目。しかし、なんかそんな気がしない。これは、この春から、立て続けに夜行列車にばかり乗っているからなのか。 シートに座り、イヤホンでJUDY AND MARYを聞きながら、時刻表を出して帰りの旅程作成を行おうとするも、速攻、照明を暗くされてしまい、読書灯はあるものの、充分な明るさではないから目が悪くなるのが嫌なので、何も出来ず、YUKIさんの歌声に聞き入っていると高崎到着。お決まりのように、駅前のコンビニに走る。 高崎の30分停車は有り難い。この間に、ホームでたばこを吸う者、ただ外の空気を吸いに出る者、僕のように改札を出て食料の買い出しに走る者…。但し、2003年春のダイヤ改正で、この長時間停車は無くなってしまった。皆さん、気を付けましょう。 さて、僕は高崎到着中に食事や歯磨きも済ませてしまったので、ムーンライトえちごが高崎を出る頃には、既にうつらうつらしており、新前橋到着すら記憶に無い。(註 : 新前橋では客扱いは無いが、運転停車として数分間、駅での停車があるのだ) |
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長岡到着の放送で目が醒める。乗客たちは半分ほどが既に起きていて、身支度をする者や車窓をぼんやりと眺める者など、夏の一日の始まりの時間を、それぞれがそれぞれの思いで送る。 車窓に広がる越後平野の水田には、深い霧がかかり、眠り足りない僕の虚ろな目を、再び夢の中に引きずり込もうとしているかのようだった。 今度も、何とか「間もなく新潟駅」という放送のおかげで眠りから醒める。目をこすって気を引き締め、真夏なのにひんやりとした、越後の朝靄の中へ降り立った。 この乗り換えは、卒業旅行の時と同じだ (ムーンライトえちご→越後線初電)。まだほんの数ヶ月前と同じ事を、この異境の地で繰り返す。ワンパターンな旅程だな…と、つくづく思いつつ、吉田を目指す。今回は弥彦線乗破が目的なので、柏崎まで行ってはならないが、有り難い事に、この列車は吉田止まり。僕の寝過ごしを未然に防ごうとしてくれているかのようである(笑)。 吉田では越後線の柏崎行きを見送り、弥彦線ホームで待ちぼうけ。やはり、深い霧に覆われている。息が白くなる。さして寒くはないのだが、湿度が極端に高い為であろう。ホームには誰もいなかったので、寂しく弥彦行きを待った。 |
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予定通り弥彦行きが入線し、通学の中高生たちも乗り込んだ。それでも、かなりガラガラである。まあ、自由に辺りを撮影出来るから、有り難いと言えば有り難いのだが。 どこまでも続く水田…ホント、地平線すら見えるのではと思うような、どこまでも続く水田に、所々、一体どこへつながるのかと呆れたくなるような送電線が走っている。稲の穂はまだ垂れもせず、しゃんと上を向かって伸びている。そして深い霧は、どこまでも越後の水田を覆い尽くしている。 あっと言う間に弥彦に到着。一つ前の矢作と同じく、弥彦神社をイメージして造られた駅舎は、朱塗りの柱・瓦葺きの屋根でどっしりとした造りである。ただ、いかにも近代の作り物!という感がある事は否めなかった。駅名看板も、古レールを鳥居型に組んだものに、駅名表示板を取り付けたもの。線路の末端や駅舎を撮るうち、もう出発の時間がやってきた。再び吉田方面に引き返す列車に飛び乗った。 帰りは乗客がかなり増えた。座席は60〜70%埋まった。行きに撮影は充分に行ったから、帰りは全く、混んでも構わない。というよりむしろ、鉄道ファンとしての意見からすれば、混んでくれるほど有り難いのだ。夏休みに入っている学校もあるかも知れないこの時期に、大人も含めこれだけの人数が利用してくれていれば、まだまだ弥彦線は消える事もあるまい。 吉田を過ぎ、上越新幹線と立体交差する燕三条からは、弥彦線が堂々たる高架の上を走り始める。弥彦近辺の様子とはエライ違い。しかし、単線は単線だけど。 東三条から新津まではお決まりのように爆睡し、寝過ごしかけた。 |
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磐越西線はキハ47の二連。またもや田園に沿ったルートを走り出すが、こちらは丘陵地域なので、今朝の弥彦のようなどこまでも続く水田とはいかない。途中、五泉ではほんの少しだけ蒲原鉄道の名残が見られた。JRのホームの向かいに、今は使われていない、島式ホームなのに両側の線路を剥がれたものが残っていて、それが、数年前までここ五泉から村松・そしてさらに数年前には加茂まで結んでいた蒲原鉄道のものである事は一目で分かった。 津川に着く前の辺りでは、ダム湖にかなり濃い霧がかかり、幻想的な雰囲気であった。猪苗代の辺りでは、地図を見る限りかなり猪苗代湖に近い辺りを走っているので、湖が見えるかと思ったが、よく分からなかった。多分見えないのであろう。 郡山では旅行貯金4件。15分1件ペースである。我ながら、あの大荷物を抱えてよくやったと思う。 さあ、磐越東線。意外に、元気のある駅が多かった。こんなに本数が少ないのに。でも、やはり威勢の良いのは小野新町以西で、それより東の駅には、それなりの雰囲気しかなかった。 常磐線では、四ツ倉の少し手前から末続にかけて海沿いを走るのでなかなか良い気分。とても関東の亜幹線の風景とは思えない。金も時間も無いので、途中、スーパーひたち追い越し待ちの為に停まった駅では、駅の水道から水をペットボトルに汲んだ。スーパーひたちの斬新なデザインは、何年経っても色褪せる事がない。もうデビューから10年は経つのに。すごい事である。 さて、予定通りに仙台には着いたが、まだ少し時間がある。この時間の余裕を利用して、利府支線も制覇。これで仙台の周辺はかなり軽くなった。新利府の新幹線車庫では、整備され、或いは洗車されて出て行く多くの新幹線を後目に、雨の中で寂しそうに佇む廃車待ちの列車の一群が目にとまった。 再び岩切で乗り換えて仙台にて降りるが、いつ大雨が降り出すか分からない状態。宿泊先のホテルまでは歩いて7、8分かかると聞いていたので、早く行こうと思ったら、3分ほど歩いたところで大降りに遭ってしまった。 しばらく雨宿りしていたが、一向に雨が弱まる気配はない。腹を決めて雨の中を傘も差さずにあと数分、ホテルまで歩いた。 |
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七帝本番も終わり、皆さんが次々に帰途に就く中、僕だけはまだ北進を試みた。諸々の理由により、仙石線の乗車が出来なかったので、仕方なく東北本線で北上し、小牛田から気仙沼線方面に入る。前谷地で、小牛田からの石巻線と分かれ、また北上ルートに入る。前谷地を出た辺りでは、平野の中、二本の非電化路線が、あたかも田んぼの畦道が分かれていくようにして別々の方向に進んでいった。 晴れ渡っていたので、駅からは右手に広大な平野、左手には急に聳える山々が見えた。線路は山地と平野のちょうど境目辺りを走っていて、地理用語で言えば「谷口」である。 途中、「のの岳」という駅を通るが、その名前は前から気になっていた。別に駅がのの岳という山の中にあるのではない。どうやら、のの岳の麓にあるようだった。漢字で書けば箟岳。標高236mの、そう大きくもない山だが、周囲の、つまり僕も今いる場所の標高が低いので、田んぼが途切れた所からいきなり迫り上がって山になっている様子が、いやによく分かった。 しかし、そんな窓外の景色も、志津川・清水浜の辺りから豹変する。 |
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右手には南三陸・金華山国定公園に指定されている海岸の風景と、海が見下ろせるのだ。ここもいわゆるリアス式海岸で、線路は高い場所を走るので、志津川湾の様子が美しく見て取れる。 実はこの志津川の辺りは、この気仙沼線開通を悲願していた地域だった。 昔からよく高波に襲われたリアス式海岸の奥にある志津川、清水浜では、津波の度に農作物や家畜、人家などに被害が出、飢饉が続発していたのであった。気仙沼線の開通は、もうこれからは飢饉に苦しむ事もなくなるという、この辺りの人々の、実に80年間にも及ぶ悲願が実ったものだったのであった。 今も言ったように、線路が高い場所を走っているのは、鉄道がこの地域の生命線となった時の為であろう。これくらいの高台を走っていれば、まさか津波に襲われる事はないだろう。 そこからは、線路はどんどん海に近い所を走るようになり、大谷海岸でピークに達する。大谷海岸駅は、名の通り、海岸の真ん前にある駅である。駅の造りも変わっていて、海の家とログハウスを、足して2で割ったといった風情である。松原を数十メートル進めば白い砂浜が広がっていて、遠浅の海に続いている。是非今度来たら途中下車したいと思う。泳げない時期でも、この趣は変わらないだろう。 この駅の辺りで線路が海に近いのは、大谷海岸が津波に襲われにくいからだろう。この付近は、奥が広くなった湾になっており、リアス式海岸の特徴が見られないのだ。 線路はこのまま、気仙沼まで海に沿って走る。途中、海の見えない区間やトンネルはあるが、結構な時間に亘って、南三陸の海を眺める事が出来た。 気仙沼は、リアス式海岸が産んだ天然の良港の奥にできた街で、我が国の重要な漁港の一つでもある。ここで気仙沼線の旅路は終わり、太平洋ともお別れとなった。 これから乗る大船渡線は、気仙沼からさらに北に続いていて、ずっと三陸海岸の側を通りながら、志津川から遥か180km北、八戸まで鉄路はつながっているのだ。これはその昔、三陸海岸縦貫線として計画されたところに端を発するもので、南から、今乗ってきた気仙沼線、大船渡線、三陸鉄道南リアス線、山田線、三陸鉄道北リアス線、八戸線がその内訳である。今回も、暇さえあれば乗りたかったのだが、時間の都合上、ここで西進する事となった。 しかし、ここでとんでもないアクシデントが待ち構えていたのである。 |
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何と、先日の台風9号だったか11号だったかにより、途中の千厩駅以西で、何ヶ所にも亘って路肩が崩れ、バスの代行運転になっていたのである。これは参った。しかも、気仙沼ではそんな事、誰も一言も言ってなかったぞ!? どうしようもないから、とにかくバスに乗り換える。バスは、途中の主要駅である摺沢と猊鼻渓などのみに停まって、一ノ関まで乗客を運んだ。しかし、田舎道のノロノロ運転では、鉄道より到着が遅くなるに決まっている。一ノ関に着いたが、ほんの数分の事で、乗る予定だった東北本線南方面行きの列車は出てしまっていた。この時点で、僕が今夜乗るつもりだったムーンライトえちご乗車は不可能となったのだった。 本当に仕方ないので、取りあえずムーンライトえちごの指定券を払い戻し、駅弁を買って食べたり、郵便局に行ったりして時間を潰した。ああ、もったいない。東北本線の列車に、大船渡線の代行バスを待てとは言えないが、もう少し乗り継ぎに配慮が欲しい。そりゃ、10分も20分もバスの方が遅いんだったら、僕も諦めはつくが、ほんの数分。もう少し、心地の良い対応をして頂きたいものである。 |
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1時間後の東北本線上りで小牛田に戻って、今度は陸羽東線の旅。古川では、いきなり高架の新幹線と垂直に交わる。ここでしばらく待って、快速に乗り換えた。 陸羽東線の愛称は、『奥の細道湯けむりライン』である。この快速の名もそこから取ったもので、川渡温泉、鳴子温泉、中山平温泉など、数多くの温泉の側を通って、新庄に抜ける。途中で、50手前くらいのおかーさんに、「どこから来たの?」声をかけられ、それがきっかけで話し込む。 この方、これから鳴子温泉郷の中にあるらしい『仙庄館』という宿に友達何人かと泊まるそうだが、そこは、蛍が蘇った事を売り物にしている宿だという。 「良かったら一緒に見に行かない?夕ご飯くらいならご馳走するけど」と、やはり、いたく気に入ってもらったが、この列車を降りると、僕は今夜のお宿が無くなってしまう。鳴子温泉のような有名旅館ばかりの所で泊まるようなお金の余裕はとても無い。それだけでなく、明日は午後から用事があるので、それこそ、ここで泊まるような事になれば、新幹線にでも乗らなければ間に合わなくなる。あまりにその代償は大きい。 代行バスの痛みは、ここまで響いてきた。ああ、東北には滅多に台風なんて来ないから、台風に弱いんだなぁ。 鳴子温泉でその方と別れ、僕は熟睡。気が付いたら南新庄の手前、ちょうど陸羽東線が奥羽本線と併走し始める所だった。 陸羽西線は、終始最上川と併走する。もうとっぷりと日が暮れていて、とてもその光景は見られなかったので、やはり熟睡。 |
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酒田で日本海に乗り換え。純粋な『ブルートレイン』乗車は、これが初めての事である。ここでは、B寝台開放式4人用コンパートメントを一人で占拠できたので、人との触れ合いは無いかな、と思い、寝ようかとも思ったが、せっかく初めてのブルートレイン乗車だし、先程まで眠りに眠っていたので眠れる訳もなく、廊下の椅子で読書をしたり、全国公の予定を立てたりしていたら、通りかかった車掌さんに話しかけられ、またまた仲良くなってしまう (年賀状まで出したくらいだ)。
直江津の辺りまで車掌室にお邪魔したりして (入って居座ったりはしていませんよ) 話し込んだ後、寝台に戻って眠った。なぜ直江津まで起きていたのかと言えば、これでとうとう、積年の夢であった信越本線完乗が現実のものとなったからである。 福井を出た辺りで目覚める。時刻は4時半過ぎ。しかしそれを5時半と見誤り、一瞬焦ったというオチも付いた。 敦賀で無事下車し、長浜行きに乗り換える。ここで、初めてループ線をまじまじと実感。これまでも、ここや上越線でループ線は通っているが、いつも夜中で眠っていたりして、分からなかったが、今回は朝、それも目覚め抜群の状態。敦賀を出発し、右カーブが多くなり、つい先程まで右側に見えていたはずの下り線が左側に見えてくる。さらにトンネルをくぐると、今度はまた、元のように下り線は右側に現れ、沿って走ったかと思うと新疋田に到着する。 |
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あとは京都到着を待つのみ。長浜で新快速に乗り換え、近江盆地を走り、草津・大津・山科を過ぎると、いくら旅好きの僕でも、少しは帰郷が嬉しくなる。ああ、久し振りに帰ってきた。 自転車にまたがって家に帰り、取りあえずは無事帰還を祝って、窓を開け放つ。まだそう暑くもない夏の風が、数日間締め切ったままだった部屋の、澱んだ空気をすぐに一掃する。ベランダから大文字と法の字を見ながら、思い切り深呼吸。 『ただいま』 しばらくそうしてから、僕はカバンの中に詰め込んだままの、旅中に着た服を洗濯する事にした。 『さあ、次は全国公や!』 今日も暑くなるであろう京都の朝の風は、まだ幾分か涼しかった。 |
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