<BODY>[PR]<A HREF="http://rd.ane.yahoo.co.jp/rd?ep=TzSQz3o1KAnY9NfNKiZRy3L_BXIHBxm2_C5N8AcmKjyqAzyShWiP4IOehBPKyLEg_8E4lE_N3Xbh7K.FZcyQEvTErgMjWGm9vZu6N7Ou8eaRIl.YEb4oDF0XFVqsx_fvgz.6r90CleugWVsncjPUsGlxqJEXaS1Pw.DtrD3kerDRj7FjbvpOJD0WUAJ.3eo-&a=bOLxtb89lm_HMztTYHOq&s=rHQ0Uw49kWcuuA--&t=Ff14iMxhwysI&C=1&D=2&i=0&m=jp&F=0&guid=ON">占いサイトの全てがここに:個別診断で貴方だけの悩みが占えます!</A><BR /><HR></BODY>
卒業記念旅行
初春−雪解けの世界をゆく


 2002年3月9日、僕は物の弾みと悪運の強さのおかげにより、何とか現役で、幼い頃から志望していた大学の入学試験にパスし、晴れてこの春から大学生になれる事となった。
 これは同時に、今まで時刻表の上でしか楽しむ事が出来ず、ノートに書き付けておくだけであった長大な旅を、やっと実行に移せる時が来たという事であった。

 高校時代、今まで鉄道模型中心だった僕の趣味が鉄道に乗る事に移行し始め、それ以来、折あらば各地のJR路線に乗るようになった。とは言っても制服姿であり、親には『学校に行って来る。』と言って家を出て、そのままの姿で旅に出る事もあったから、当然日帰りでなければならないという制約が付く。
 それだけでなく、朝は学校が開く時刻より何時間も早く学校に着くように行ったのではアリバイ的にマズいし、最終下校時刻を大幅に遅れて学校を出たように思われる時刻に帰着するのも考え物である。
 この結果、僕が高校時代に行った旅は、日帰りであり且つ朝は5:59大和上市 (実家の最寄り駅。奈良県の近鉄吉野線) 発、夜は20:18分大和上市着、という非常に厳しい制約を満たすものが殆どである。しかし、勉強の合間に毎日毎日時刻表を(ひもと)きながら立てた計画により、日帰りだけで近畿地方、中国地方東部と東海地方西部のJR路線は殆ど乗り終えてしまった。本当に、我ながらよくやったものである。
 しかし、JRの路線延長は約2万キロ。それに対し、僕がコツコツと日帰りの旅で乗破したのは僅か5000キロにも満たない。
 総計20回にも上る旅をしたにも拘わらず、乗破できたのは全体のたった1/4。しかも北海道、四国、東北、九州は全くの手つかずという状態であったが、距離的にもこれらを日帰りの旅で乗りつぶすというのは不可能な領域に入ってきてもいた。
 そんな状況であったから、僕の喜びは一入であった。高校時代、ノートやルーズリーフに書き付けた旅の行程案は優に200ページを超える。1ページに記してある行程は平均5つくらいだから、1000以上の行程を立ててきたという事になろう。鉄道の時刻というものは生き物の如く、毎月少しずつ変わっていくから、ダイヤ改正の度に、前までは可能だった乗り換えが不可能となったり、乗り継ぎ駅などのポイントを微妙に変えなくてはならなくなったりするので、その度に行程を一々組み替えていたからだ。
 どれも実に魅力的な行程ばかりで、捨て難い。卒業記念となる今回の旅に相応しいものも数多かった。その中から、今回はこの3月一杯で廃止となる長野電鉄木島線お別れ乗車を兼ねた、4泊5日の旅に出る事にした。


0・1日目 木島線お別れ乗車と碓氷の山々へ

大和上市20:42
急行
近鉄 吉野線
古市21:55
21:57
準急
近鉄 南大阪線
道明寺22:00
22:02
近鉄 道明寺線
柏原22:06
22:17
関西本線
新今宮22:37
22:42
紀州路快速
大阪環状線 外回り
大阪22:54
23:26
急行
きたぐに
直江津6:03
6:08
信越本線
長野7:41
7:51
信越本線
屋代8:10
8:12
長電 屋代線
須坂8:48
9:06
長電 河東線
信州中野9:26
9:35
長電 木島線
木島9:55
10:29
長電 木島線
信州中野10:48
10:52
特急
長電 山の内線
湯田中11:07
11:17
特急
長電 山の内線
信州中野11:31
11:59
長電 長野線
長野12:46
13:08
長野新幹線
あさま516号
軽井沢13:42
14:01
しなの鉄道
小諸14:25
14:45
小海線
小淵沢17:23
17:27
中央本線
塩尻18:17
18:25
中央本線
茅野18:53
19:02
特急
スーパーあずさ14号
甲府19:39
19:58
身延線
富士22:32
22:36
東海道本線
静岡23:11
23:40
東海道本線
沼津0:32
2:56
快速
ムーンライトながら
車中泊
 これほどまでに胸が高鳴るのは初めてかも知れない。何物による干渉も受けず、自分の作った長旅を自分の好きなように実現する。その愉しさと言ったら、比類無きものであった。

 2002年3月14日、夜の大和上市駅で急行を待ち、大阪に出る。高校の3年間はほぼ毎日、飽きる程乗ってきたこの吉野線が、初めて乗る路線であるかのようだ。既にして心には、春を待つ信濃路の風景が浮かんでくる。
 あべの橋まで直接出るつもりだったが、時間に余裕があったので道明寺で道明寺線に乗り換え、柏原からJRに入って大阪に出た。逸る心を抑えつつ大阪環状線の電車を降りて、夜行列車の多くが発車する11番線に向かった。
 まだ「きたぐに」は入っていない。しばらくホームで待っている間も、ひっきりなしに通勤電車が発着していく。しかしそれは彼岸の事のようで、僕の心は既にして旅路を駈け巡っていた。
 3つの前照灯を輝かせながら583系寝台電車が入線してきた。いよいよ、旅が始まる。

 4人用のボックスシートに体を落ち着ける。僕は当然自由席の客だから、寝床などなく、普通の椅子が今夜のお宿である。MAIHAMA DREAMIN'では、急行アルプスの指定席で一夜を過ごしているので、座席で眠るのは初めてではないが、ボックスシートなので相席の可能性もある。僕は寝相が良いとは言えないので、向かいの人の足を蹴っ飛ばしてしまう危険性がある。
 しかし、スキーシーズンはもう終わっているし、平日の夜ではあるし、乗車率は高くなかった。僕も直江津までの全区間、4人用の席を独り占めできたので、横になって足を伸ばし、ゆっくり休む事ができた。
 この583系は、世界初の寝台電車で、昼間は座席、夜は3段式寝台として使用できる車輌として登場した。夜行列車の全盛期には非常に効率の良い運用ができるとして重宝されていたが、時代が変わった今、ただ大人数を運ぶ事しか考えずに製造された583系はもはや時代遅れとなり、定期運用に用いられているのはこの急行「きたぐに」のみとなっている。

 早朝の直江津駅で下車し、ここから信越本線で信濃路に入る。
 車中は殆ど眠っていたので、妙高高原などの駅名を見る事もできなかった。

 時代の風は、この信州の鄙びた土地にも、間違いなく吹いてくる。この3月一杯で、長野電鉄河東線信州中野−木島間の廃止が決まり、まずはそのお別れ乗車に向かおうと思う。
 しなの鉄道屋代駅から長野電鉄に乗り換える。かなりの人数がこの駅でしなの鉄道を下車した為、僕はそれらが皆、長野電鉄への乗り換え客だと思い、同じ河東線でも屋代−須坂間は元気なのではないかと思ったが、それは大きな勘違いであった。他の客は一人残らず出口に殺到し、長野電鉄への乗り換え客は僕一人きりであった。長野電鉄は、しなの鉄道との接続を非常に良くしているにも拘わらず、一人の乗り換え客もいないとは、寂しい事この上ない。
 2輌編成の電車に、乗客は9人。乗り換えて間もなく、女声のアナウンスが流れてゴトゴトと走り出した。途中駅からも、ぽつぽつとは乗ってくるが、全て無人駅の為、僕が乗った2輌目の車輌は人数が変わらない。
 車内には、地元の高社中学校の生徒たちが描いたポスターが貼られていた。全てのポスターに「ありがとう、木島線」の文字。何とも心があたたまる。しかしそのポスター、ビニールのカバーが掛けられている訳でもなく、コピーでもない。生身のままで掲示されている。恐らく、そんな事に余計な経費を使う余裕がないのであろう。経営状況の苦しさが伺える一面であった。
 5駅ぶりに全ての扉が開いた松代で、一気に女子中高生が全員下車。車内の華やぎは消え、乗客は僕以外に一人きりとなった。
 雪を頂いた山々を見つつ、2輌編成で昭和41年日本車輌製の3500系はひた走る。信州中野でいよいよ木島行きに乗り換えて、この3月末で廃止される区間に乗り入れる。
 夜間瀬川の流れをデッキガーダー橋で渡り、幾つかの無人駅を過ぎると、終着駅の木島であった。この駅は有人で、廃止間際まで駅としての面目を保ち続けたと言える。僕はまだ3月31日まで高校生であるという身分を利用し、この駅で長野電鉄全線が一日乗り放題になるという切符を買った。これは高校生以下の学生のみにしか発売していない切符で、料金もかなり格安に設定されており、相当に得する事ができた。
 駅前のポストで、高校時代に世話になった人へお礼の手紙数通を出したり、廃止記念の絵葉書を買ったりした。辺りは如何にも高原といった風情で、青い山々も空気も澄んでいて清純である。この駅に列車から降り立つ事はもう二度とあるまいと感慨に耽りながら、一時を過ごした。家々の軒下に、屋根から下ろされた雪が堆い山となって残っているのが印象的であった。
 信州中野に戻った頃から、空が曇り始めた。湯田中までは特急列車しか乗り入れていないが、これは信州中野−湯田中間で各停なので、この区間内のみの乗車なら特急料金無しで利用する事ができる。
 終点の湯田中は、世にも奇妙な、駅構内にスイッチバックのある終着駅である。これは湯田中駅が坂を登ってすぐの場所にあり、また地形の関係もあってそのままでは4輌編成分の長さを持つプラットホームを建設する事ができず、仕方なく、湯田中駅に入線する列車はまず駅を数十メートル行き過ぎて停まり、後方のポイントが切り替わるのを待ってからバックしてホームに入線する。駅を出発する際はその逆で、一旦行き止まりの方に向けて数十メートル走ってから、ポイントの切り替わりを待って、ようやく信州中野方面に発車する。こんな珍しい形態を取っている駅は、日本にここだけである。
 湯田中付近にはリンゴの木が多い。それが余計にこの鄙びた信州の地を趣深いものにしている。たった10分の待ち時間で引き返すのが惜しいが、今日はこの後も予定が立て込んでいるから仕方ない。ここで途中下車してみる訳にはいかなかった。
 信州中野に戻った辺りで、篠突く雨になった。僕はホームで乗り換える列車を待っていたが、横殴りに降っているのでホームの中程にまで雨滴が飛んでくる。これは敵わないと跨線橋に避難した。跨線橋の中にも、木島線さようならのポスターが貼られていた。相当な雨で、辺りがしんと静まりかえってしまったようだ。
 因みに、ここで普通列車に乗り換えたのは、特急料金を節約する為である。

 長野に着くと雨は上がっていた。ここからは新幹線に乗り換えて軽井沢を目指す。これもJR完乗への道程で、本来なら新幹線など使いたくないのだが、新幹線を乗破しない限りJR完乗とは認められないのだから仕方ない。
 しかし、新しい路線に乗るというのは楽しいものであるし、260km/hの高速を体験する事などなかなか無い僕は、ずっと車窓風景に見入っていた。とは言っても、この区間は殆どがトンネルであるが。
 軽井沢では、20分の乗り換え時間に駅前の郵便局に行って初めての旅行貯金、さらに碓氷峠の方に手を合わせて廃線後4年半が経った鉄路に思いを馳せた。ここでも、是非廃線跡を歩いてみたいという衝動に駆られたが、やはり後の行程を揺るがす訳にはいかない。僕は踵を返してしなの鉄道に乗り込んだ。
 小諸からは今日の白眉、小海線乗車である。小諸線は日本一の高原列車で、日本で最も高所にある野辺山駅を筆頭に、第8位までが全て小海線の駅である。傾きかけた陽の光が照らす中央高地の雑木林を、2輌編成のキハ110は緩やかにカーブしながら走ってゆく。その美しさは、神々しくさえあった。
 さて、ここからの行程は苦肉の策であると自認している。中央本線は名古屋と東京を信州経由で結ぶ路線だが、その中央部、長野県の塩尻付近で、路線が二つに分かれている事が解るだろう。ここが問題の区間なのである。
 僕と中央本線の格闘の歴史は数度に亘り、初めは高2の夏、飯田線を乗破した旅に遡る。この時僕は、辰野から飯田線に入るに際し、ついでに塩尻−辰野−岡谷間も乗破しておこうと画策し、こちらを乗破した。しかしその年の暮れ、突如舞い込んだサンルートホテルプラザ東京の宿泊券を消化すべく、関東・北陸方面に旅した際、僕は塩尻−みどり湖−岡谷間を乗破したかったにも拘わらず、夜行列車の急行アルプスで乗破せざるを得ず、この列車は辰野経由なのでみどり湖側を乗破する事ができなかった。中央本線は全長424.6kmの長大な路線であるのに、その内僅か11.7kmを残して完乗お預けとなっていたのである。これは精神衛生上、すこぶる悪い。
 そこで今回、小海線を乗破して小淵沢に着くなり、まずは中央本線を西に向かって塩尻−みどり湖−岡谷を乗破し、それから改めて東を目指すというルートを組んだ。しかし、いくら完乗の為であるとは言え、感心できたルートではない。
 塩尻駅には何度も来た事があるが、いつ見ても良い駅だと思う。田舎にありながら、分岐駅らしい多くの長大なホームを持っているからだろう。
 中央本線の帰途、茅野から甲府までは特急を使用した。なるべく鈍行がよいのだが、それでは身延線の列車に間に合わなくなってしまうので致し方ない。ただ、特急スーパーあずさに使用されているE351系は、是非一度乗ってみたかった列車であったし、中央本線を特急で駆けるというのは悪くない。既に日も暮れ落ち、もはや外が見える時間帯でもない。
 身延線では、4人掛けの席に相席したおじさんと話し込む。おじさんは山登りが趣味という事で、山の古地図などを見せて頂いた。今日は身延温泉に泊まり、明日は身延山に登るとの事。70手前であったが、元気な方であった。
 身延駅でおじさんと別れた僕は、深い眠りに就いた。起きたら既に列車は富士駅に着いている。ここからの行動はよく覚えていないが結果として、静岡駅でも眠りこけていた僕は、1分の乗り換え時間で出る最終の浜松行きを乗り過ごし、仕方なく静岡で上り列車に乗り換えたのだ。
 沼津駅では、深夜に及んでムーンライトを待つハメになった。もし静岡駅で23時12分発浜松行きに乗り換えられていれば、浜松駅では50数分の待ち時間でムーンライトに接続したのだが、現実は2時間半待ちとなってしまった。駅のホームで、通過する貨物列車を見ながら読書をしつつ時間をつぶした。



2日目 春の房総半島一周

東京4:47
4:56
京葉線
南船橋5:25
5:30
武蔵野線
西船橋5:36
5:44
京葉線
市川塩浜5:50
5:57
京葉線
蘇我6:23
6:45
内房線
木更津7:20
7:22
久留里線
上総亀山8:31
8:46
久留里線
木更津9:49
10:05
内房線
君津10:12
10:35
内房線
安房鴨川12:28
13:39
外房線
勝浦14:08
14:30
外房線
大網15:31
16:06
東金線
成東16:23
16:37
総武本線
佐倉17:11
17:21
成田線
佐原18:06
18:13
成田線・鹿島線
鹿島神宮18:35
18:38
鹿島線・鹿島臨海鉄道
長者ヶ浜潮騒
はまなす公園前
18:50
18:57
鹿島臨海鉄道・鹿島線
鹿島神宮19:08
19:51
鹿島線
香取20:06
20:08
成田線・総武本線
銚子20:50
20:52
総武本線
成東21:48
22:24
東金線
大網22:43
22:45
外房線
千葉23:10
23:11
総武本線・東海道本線
横浜0:06
駅前交番付近にて野宿
 早暁5時前の東京駅を、僕はひたすらに歩いていた。京葉線のホームは遠い。地図を見て頂ければお分かりのように、京葉線の東京駅は、新幹線をはじめとする東京駅本体と、東海道本線の次駅である有楽町駅とのほぼ中央に位置しているのだ。これで「東京駅」を名乗っているのだから困りもので、知らずにやって来た人は、乗り換え距離のあまりの遠さに驚く事になる。これは、京葉線が開通したのがつい最近(と言っても15年以上前だが)で、既に東京駅の地下は地下街や地下鉄のトンネルが張り巡らされており、もはや介入の余地がなかったのである。いっその事、南東京駅とでも改称したらと思うが、今更そんな事を言っても仕方ない。
 今日の旅路は、一日で房総半島のJR路線を乗り潰してしまう事である。千葉県は予想以上に広く、房総半島とそれに付随する諸路線の乗破だけに丸一日を割かねばならない。が、房総は今が菜の花の盛りであり、車窓風景もかなり期待できそうである。
 だが、その前に乗っておかねばならない路線がある。武蔵野線の南船橋−西船橋間だ。ここは日本では珍しい、デルタ線である。デルタ線とはその名の通り、線路がギリシャ文字のΔ(デルタ。小文字はδ)のように三角形を描いているところを指す。この三角形のうち、南と西の2辺は乗車済みなのだが、東側の辺が未乗である。まずは南側の辺を通って南船橋に行き、ここから武蔵野線に乗り換えて東側の辺を乗破しつつ西船橋へ。さらに西船橋で東京方面行きに乗り換え、西側の辺を通って市川塩浜。これでデルタ線を一周した事になる。

 蘇我からは、埋め立てられた海岸線に沿って内房線の旅である。小湊鉄道が分岐する五井を過ぎ、袖ヶ浦では海ほたるが見えるかと窓に齧り付き、木更津に到着。ここから、盲腸線の久留里線に乗り換える。この線は、千葉県内にありながら非電化であり、気動車の2輌編成が走っている。実に長閑なものだ。
 特に車窓が素晴らしい路線でもないので、前夜、ロクに寝ていない僕は往路の殆どを熟睡してしまう。
 さて、終着の上総亀山では、15分の折り返し時間の間に、荷物を車内に置かせてもらったまま駅舎の外へ出てみた。鄙びた山間の終着駅の典型という感じで、非常に好ましい。
 帰りは車窓に目をやっていたが、房総半島がこんな起伏に富んでいたのかと思い直させられるような渓谷の中を進んでゆく。房総半島は地形学的に言えば洪積台地なので、浸食基準面が低いレベルにあるから、深い谷が刻まれやすいのだろう。
 木更津からは再び内房線に乗り、久留里線の長閑さとは打って変わった工場地帯の横を走ってゆく。木更津で、1つ先の君津行きが来たので取りあえず乗ってみる事にし、君津で23分の待ち時間を過ごしたが、工場の中に駅があるという感じだった。この辺りは、京葉工業地域の南端に当たる。
 安房鴨川行きに乗り込み、さらに南下を続ける。東京湾口を塞ぐように伸びた富津岬の付け根を通り、海沿いに出、浦賀水道を右手に、海岸からすぐに急崖を為している山々を左手に見ながら走り、館山の少し先で進路を東に変える。房総半島最南端は白浜町だが、内房線は白浜を通らず、館山市と千倉町の北端を通って太平洋側に出る。千倉海岸、和田浦、江見海岸、太美海岸といった、名高いビーチの続く海岸線を走って、列車の終点であり内房線の終点である安房鴨川に着いた……とは書いているものの、僕はこの間、ずっと熟睡し続けていた。
 安房鴨川では、本来なら30分の待ち時間で外房線の普通列車に乗る予定であった。しかし、僕の眠りは非常に深かったようで、起きたのは乗る予定だった12時58分の列車が疾うに出てしまった13時10分頃。乗ってきた列車は折り返し内房線の千葉行きとなるので、あと数分目覚めるのが遅かったら、来た道を引き返してしまうところだった。

 気を取り直して、予定より1本遅い列車で旅程を再開する。勝浦までは、特急車輌に乗車した。と言うのも、この列車は勝浦から特急わかしおとして運転されるものが、安房鴨川−勝浦間は普通列車として走っているのである。そのまま乗っていても次なる目的地・東金線の起点である大網には着くのだが、青春18きっぷで乗っているだけに、特急に乗るには別料金が必要となるので勝浦にて下車する。隣のホームには、既に14時30分発の普通が停まっていたので、そのまま乗り換える。
 大網からは東金線に入り、終着の大網から一旦佐倉に向かう。房総半島一周を銘打っているのだから当然調子に行かねばならないのだが、何故こんなルートを取るのかは、後で分かる。
 佐倉から成田を経由して佐原に向かう辺りで日没を迎えた。通勤客でごった返す車内から印旛沼を埋め立てた田に落ちる夕陽を見た訳だが、これが意外にも美しかった。この夕陽を車内から眺めている人は、そういないのではないかと思う。皆、夕陽など気にする余裕も、またその気もない生活をしているのだろう。僕だって、普段はそういう生活をしているのだから。しかし旅に於いては、そんな何でもない光景に、一々目を向け、心洗われるものだ。
 陽が落ちてしまうと、もう楽しみがない。外を見ても、住宅や街灯の明かりがぽつりぽつり見えるだけである。

 鹿島神宮からは鹿島臨海鉄道の列車に乗り込む。とは言っても、鹿島臨海鉄道を乗破する訳ではない。この区間は少しく説明を要するので、ご辛抱願いたい。
 僕の目標はあくまでも未成年で「JR」を完乗する事であり、私鉄や第三セクターなどは乗破対象としていない。而るに、今から乗るのが鹿島臨海鉄道の列車だというのは如何なる事かと言うと、これは、鹿島線の特異性に因る。
 鹿島線は、成田線の香取駅から北に分岐する支線で、鹿島神宮駅はその北端から2駅目に当たり、北端が鹿島サッカースタジアムという駅になっているのだが、この駅が、サッカーの開業日にしか営業しないという変わり種の駅なのである。周囲には人家も少ないし、鉄道の需要は試合日のみなのだろうが、その為、サッカーの試合がない日にやって来た僕は、この駅で降りて引き返すという訳にはいかない。1駅区間の為に出直し、サッカーの試合がある日に再び訪ねて来るというのも大層な話である。かと言って、この区間に乗らなければ、「全線」完乗が成し遂げられなくなってしまう。
 そこで、鹿島サッカースタジアムからさらに北へと線路が続く鹿島臨海鉄道に乗り、鹿島サッカースタジアム駅の2つ先にある長者ヶ浜潮騒はまなす公園前駅という長い名の駅まで行き、そこで反対方向への列車を待ち、鹿島神宮に戻って来るという案を立てたのであった。駅が営業していなくても、線路は続いている。その上を通過して乗破する、という手法に出たのである。
 鹿島神宮を出た列車は、暫く走ると鹿島サッカースタジアムの巨大な影を右手に見ながら走る。ここで鹿島線乗破となったはずだが、駅は営業していないので電気などは消されており、いつ鹿島サッカースタジアム駅を通過したのかさえ分からなかった。
 曖昧な感じがするが、ともかく鹿島臨海鉄道に入り、長者ヶ浜潮騒はまなす公園前で下車した。
 この駅、実はそれまで日本一長い駅名だった、阿武隈急行の「やながわ希望の森公園前」駅を抜いたとして1990年11月18日の開業以来、その名を知られていたのであるが、特に私鉄の間で長い駅名日本一の座を賭けて、熾烈な(?)争いが起こり、早くも1992年4月1日には南阿蘇鉄道の「南阿蘇水の生まれる里白水高原」駅にトップの座を奪われてしまったのである。しかも、その南阿蘇水の生まれる里白水高原も、昨年(2001年)に島根県を走る一畑電鉄の古江駅がルイス・C・ティファニー庭園美術館前駅と改称され、文字数日本一の座を譲ったのだ(但し、音節数では未だ白水高原駅がトップ)。
 そんな短い過去の栄光のある駅だが、周囲は田圃に囲まれており、こんな夜更けでは人気が全くない。間もなく水戸方面から大きな光が近付いてきて、僕は鹿島神宮行きに乗り込んだ。乗り込んだのは勿論、僕一人きりであった。
 鹿島神宮で再び鹿島線に乗り換え、香取では銚子行きに乗り換えた。
 終点の銚子では、総武本線経由で千葉に向かう列車に乗り換えるが、その待ち時間がたったの2分である。これでは駅の外に出る時間が無いのは勿論の事、銚子に着いたという感慨を抱く間もなく帰ってしまわなくてはならない。不本意ではあるが、これも日程上仕方ない。
 さて、総武本線で千葉に向かうとは言ったものの、やはり真っ直ぐには向かわないのが今日の日程の捻くれたところである。千葉行きを成東で降り、再び東金線に乗り込む。
 先程、東金線から総武本線に乗り換えた際、一旦佐倉に行ってから銚子に行ったのはこういう理由で、つまり、房総半島の全線を乗破するには、これが最も効率良かったのである。東金線を2度通る事にはなるが、僕の立てた行程案の中では、最も早く全線乗破ができるのが、この行程だったのだ。
 外房線の未乗区間である大網−蘇我間も始末して、23時10分、千葉に到着。
 千葉からはまた総武本線に乗って横浜に着いたが、既に今夜のお宿にするつもりだったムーンライトながらは出てしまっており、野宿するハメになった。これというのも、安房鴨川での寝過ごしが災いしているのである。横浜駅といえど、夜中は駅が閉鎖になるので駅寝をする訳にはいかない。浮浪者対策もあり、仕方のない事だとは思うが、困った事になった。



3日目 野宿明けのイーハトーヴ紀行

横浜4:18
東海道本線
快速
ムーンライトながら
川崎4:25
4:46
南武線
立川5:39
5:42
中央本線
飯田橋6:28
6:34
中央本線
御茶ノ水6:40
6:45
総武本線
秋葉原6:47
6:50
山手線
上野6:53
7:03
東北新幹線
やまびこ33号
北上10:07
10:15
東北本線
花巻10:26
10:32
釜石線・山田線
宮古14:36
14:46
山田線・岩泉線
岩泉16:23
17:20
岩泉線
茂市18:12
18:31
山田線
盛岡20:41
21:20
東北新幹線
こまち62号
北上21:42
21:58
北上線
横手23:20
 野宿と言った方が、まだ聞こえが良い。実際は、交番の横で一晩中立ち続けただけなのである。
 交番の巡査にも「近くにサウナとかあるから、良かったら連れて行ってあげようか」などと言われるのを、短い時間ですから大丈夫と断り、駅が閉鎖される1時過ぎから3時40分まで交番の横に立ち、街灯の明かりで本を読んだり手紙を書いたりしていた。まだ子供みたいな顔をしていたので、よく補導されなかったものだと思う。

 横浜駅の初電はムーンライトながらである。これでお隣の川崎まで行き、ここで南武線の初電を待つ間に、駅員さんと交渉の末、国仲涼子のSuica宣伝ポスターをもらう。Suicaは、まだ昨年の11月に導入されたばかりであったから、駅中にこのポスターが貼られていたのだ。
 南武線で立川まで行き、中央本線に乗り換える。ここまでは徹夜明けにも拘わらず順調な滑り出しだった。しかし、睡眠不足は僕の体を深く蝕んでいたようで、本来の予定ではこの列車を新宿で降り、埼京線に乗り換えて大宮に行き、そこから充分に余裕を持って新幹線に乗るはずが、目を覚ましてみると既に列車は飯田橋に着いている。新宿駅を寝過ごしてしまった事は寝起きの頭にも分かったので、咄嗟に列車を降りた。
 が、これが実は、失敗だったのである。そのまま東京まで行ってしまった方が、話は簡単だったのだ。降りてしまったが為に、事態はややこしくなる。
 既に新幹線の乗車券は買ってある。もし乗れなければ、特急券はただの紙切れになってしまうのだ。事前にキャンセルの手続きをしても、それなりの手数料を取られてしまう。
 僕は飯田橋の駅のベンチに腰を下ろすなり、猛烈な速度で時刻表をめくり始めた。最も余裕を持ってやまびこ33号に乗るにはどうすれば良いか……。
 しかし、もうどんなルートを採っても、極めてギリギリにしか間に合わない事が発覚した。こうなれば一か八かでやってみるしかない。僕が採った方法は、御茶ノ水で総武本線に入り、秋葉原で山手線に乗り換え、上野から新幹線に乗るというものだった。それでも、上野の乗り換え時間は10分。時刻表の標準乗り換え時間は17分となっているし、エスカレーターで地下4階まで降りて行かねばならないし、果たして間に合うのかは分からないが、これが最も余裕のある行程なのだから仕方ない。
 上野に着くなり電車から飛び降り、エスカレーターを下って下って、地下4階のホームに着いたのは、やまびこ33号が東京側のトンネルから顔を出したのと同時であった。ギリギリにも程があるが、何はともあれ、間に合った。

 やまびこの車内も熟睡し、仙台で目を開いた気がするが、一ノ関の記憶がないので再び眠ってしまったのだろう。しかし、今朝のような事にはならずに10時7分、僕はきちんと北上駅のホームに降り立っていた。
 ここからは在来線の旅路である。東北本線で花巻へ、そしていよいよ釜石線だ。
 この辺りは、宮沢賢治が童話の中に描いた景色が今も残る。特に遠野は、柳田国男の遠野物語にも記されているように、伝説と歴史の街である。上有住と陸中大橋の間では、急勾配を避ける為に山の中をトンネルでぐるっと180°廻る直前、眼下に陸中大橋駅を眺めたり、変化に富んだ車窓であった。
 釜石で進行方向が変わって山田線に入り、列車はリアス式海岸の湾奥を辿って宮古を目指し北上する。途中、海に沿って走る区間も多いが、僕は再び睡魔に襲われていたので、素晴らしかったであろう景色の記述ができない。
 宮古から再び内陸に入って、4つ目の茂市から岩泉線に入る。
 この旅の行程を立てるに当たって最も苦心したのが今日の行程で、その理由が、この岩泉線と山田線であった。この辺りは列車の運行本数が極度に少なく、山田線の下りなどは宮古までの初電が10時48分という、恐らく日本一遅い「初電」となっている。併走する国道には路線バスが走っており、こちらに完全に客足を奪われているのだそうだが、それを取り戻そうともしていないのが気にくわない。
 それはともかく、釜石線を含めたこの3路線を如何に効率よく乗破するかが、この旅のキーであった。これを軸にして旅の計画を立てていったところ、花巻発10時32分の釜石線から始めれば最も良い事が分かったのであった。
 岩泉線は、直通列車が日に3往復というローカル線だが、その分、車窓は素晴らしかった。まず、舗装されている道が無い。どれも地道なのである。線路の横にはいつも清冽な流れが寄り添っており、その流れも、コンクリートで固められたような箇所は1つとして無い、自然のままの姿であった。岩泉に近付くにつれて流れが小さな沢に分岐し、少しずつ細くなっていくのを眺めていると、「ああ、川というのはこうしてできるものなのだ」と、頭の中では分かっているけれど、なかなか実感した経験の少ない事に気付かされる。
 車窓には、全く人気がない。民家はぽつりぽつりと見えるのだが、生活感が薄いというのか、どうも活気が無い。これは何も寂れているから、というような理由でなく、北国独特のものなのであろう。まだ雪解けと言うには早いこの季節、人々は無暗に外へ出たりせず、家の中でじっとしているのかも知れない。
 岩泉では、駅周辺をぶらついたが、何もする事がない。近くには長州の秋芳洞、土佐の龍河洞と並んで日本有数の規模を誇る鍾乳洞の龍泉洞があるが、歩いていける距離ではないし、既に16時半を回っているので諦める。
 東北の日暮れは早い。往路でさえ寂寥感の漂っていた岩泉線の車窓が、復路はさらに物悲しく見える。
 茂市に到着した辺りで辺りが暗くなり始め、山田線の車窓を楽しむ事はできなかった。山田線は区界峠の付近の景観が素晴らしいだけに、夜に乗破するのは勿体ないと思うが、致し方ない。
 盛岡から北上まで新幹線に乗車した後、北上線に乗ったが、この路線も素晴らしい景観を誇る。特にゆだ錦秋湖の付近は素晴らしく、また、途中のほっとゆだ駅は駅舎の中に風呂があるという変わり種の駅である。これらを無視して、しかも夜中に通るのは、通る方も気が引けているのだが、限られた時間で効率よく路線を乗破していくという旅のコンセプトなので、やはりやむを得ない。
 横手の宿は、駅前のビジネスホテルである。予め遅くなるという事は言っておいたので、特に何事もなく部屋に入って征衣を解いた。
 しかし、旅先で風呂に入ったり荷物や服の整理をするのも、慣れていないと一つ一つに時間が掛かる。時間は瞬く間に過ぎ、眠ったのは2時を回っていた。今から思えば、どう考えても翌朝5時に起きられる時間ではない。



4日目 奥羽・東北 大返し

横手11:15
奥羽本線
大曲11:34
11:52
奥羽本線
新庄13:32
13:51
奥羽本線
北山形14:56
15:14
左沢線
左沢15:51
16:01
左沢線
山形16:44
17:03
山形新幹線(奥羽本線)
つばさ142号
福島18:14
18:28
東北本線
黒磯20:47
21:17
東北本線
大宮23:25
23:43
上越線
快速
ムーンライトえちご
車中泊
 この旅は、僕が一人で計画し、実行した初めての宿泊を伴う旅である。今まで、数々の長旅を計画はしてきたが、実行はなかなかできなかったのだ。それ故、1000本以上の旅程を立ててはいても、旅に慣れている度合としては、初心者と変わらない。
 前夜、2時に寝るなどというバカをやってしまったのもそのせいだ。

 耳に付く電子音で目を覚ました。咄嗟に枕元の目覚まし時計に手をやる。昨夜寝る前に、ベッド備え付けの目覚ましを5時に合わせて眠ったのだ。今日の予定は、横手駅を5時55分に出る奥羽本線の上り列車で出発し、山形では左沢線を往復してからさらに南下、福島を経由して郡山から水郡線に入り、上菅谷にも寄ってから水戸で常磐線に入り、一旦いわきに行ってから日暮里へ、さらに赤羽で夜行急行能登に、高崎でムーンライトえちごに乗り換えて車中泊という、実に美しい旅程であった。
 しかし、電子音は目覚まし時計をいじくっても止まらない。漸く僕は、音の発信源が電話である事に気付く。寝惚けたまま受話器を取ってみると、女性の声で「あのぅ、そろそろチェックアウトして頂けますでしょうか?」
 その時点でふと時計を見た僕は、言葉を失いそうになった。既に時刻は11時前になっていたのである。
 大急ぎで支度をしてチェックアウトし、駅に向かったが、もう予定は滅茶苦茶である。元々、寸分の狂いも許したくない程に美しい行程だったのに、5時間も遅れてしまっては、もはや元の行程に頼る事ができない。
 今夜のムーンライトえちごの指定券を持っているので、何としてもこれには乗りたい。となると、リミットは大宮に23時43分となり、今日最も楽しみにしていた水郡線を諦めざるを得なくなる。無論、特急や新幹線を多用すれば元々の行程を辿れない事もないのだが、さすがにそんな金はない。
 横手駅に着いてから大急ぎで時刻表を調べた結果、ともかく上り列車は当分来ないので、田沢湖線との接続駅である大曲までの区間を乗破しておき、そこで上りに乗り換えて新庄、そして山形へ向かう事を決めた。
 さらに列車の中で、左のような行程を作り、何とか今日中にムーンライトえちごには漕ぎ着けられる事となったが、寝過ごしが原因だけに、何とも遣る瀬無い気分に苛まれた。
 しかし、大曲で途中下車した頃には、持ち前の諦めの早さを発揮して吹っ切れ、後は行程も順調に進んだ。
 左沢線は本来の計画より5時間半遅い乗車となったが、山形盆地内で複雑な流路を持つ最上川に沿ったり渡ったりする。一帯は紅花の産地であり、昔は最上川の水運を活かして河口の酒田まで運ばれ、北前船によって京へと運ばれたのであった。
 山形で牛肉弁当を買って新幹線つばさの車内で食した。途中、峠駅ではスノーシェードの向こうに、一瞬だけ昔のスイッチバック跡が見えたが、列車はすぐにトンネルに入ってしまった。
 福島で東北本線に乗り換えた頃にはほぼ陽が落ちており、後は大宮まで、殆ど寝ていたように思う。今日は一日中ずっと寝ているではないかと思われるかも知れないが、旅慣れていないが為に疲労の蓄積は大きかったのだろうと思う。
 大宮でムーンライトえちごに乗り換え、これで元の行程に戻す事ができた。本来なら、水郡線全線と常磐線の一部も乗破できるはずだったが、叶わぬ夢となってしまった。



5日目 雪解けの信濃川に沿って

新潟4:55
5:08
越後線
吉田6:00
6:02
越後線
柏崎7:12
7:16
信越本線
長岡8:00
8:38
上越線
越後川口8:50
9:10
飯山線
十日町9:37
10:50
飯山線
戸狩野沢温泉12:17
12:45
飯山線
長野13:48
14:02
信越本線・篠ノ井線
松本15:16
15:22
篠ノ井線・中央本線
中津川17:58
18:06
中央本線
名古屋19:17
19:25
東海道本線
米原20:37
20:39
東海道本線
新快速
大阪21:59
22:03
大阪環状線 内回り
天王寺22:21
あべの橋22:50
近鉄南大阪線
急行
大和上市0:08
 国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった……と言うのは、大宮を出てすぐに熟睡した僕の言える事ではないけれど、朝起きて、辺り一面の雪景色の中に降り立つというのは実によい気分である。寝ているうちに異境の地へと運ばれたような気分だ。いや、現にこの時点で、僕にとって新潟などは異境の地以外の何ものでもなく、その気分はこの上なく新鮮であった。
 村上まで行くムーンライトえちごを新潟で降り、まずは今日最初の獲物、越後線の初電に乗り込む。信越本線は敦賀以東、概して海のすぐ側を走っている北陸本線と同様、柏崎までは海岸に近い場所を走るのだが、柏崎からは長岡、見附、三条、新津などを経由する為に内陸に入る。その区間の海沿いを結んでいるのが越後線で(海沿いと言っても、地図上では海に近い場所を走っているというだけで海は全く見えないが)、地方交通線ではあるが新潟市内に通勤する人たちのベッドタウンを走るので、早朝でも上りの利用者は多い。
 柏崎から長岡、そして先程ムーンライトえちごで通ってきた越後線を逆に走って8時50分、越後川口に着いた。いよいよこの旅最後の乗破線区となる飯山線である。
 飯山線は、上越線の越後川口と信越本線の豊野の間96.7kmを結ぶローカル線で、ほぼ全区間に亘り信濃川に沿って走る。
 因みに明治時代の初期計画に於いて、信越本線は現在の直江津経由ではなく、飯山線のルートで建設する事になっていたそうである。しかし、日本一の大河川・信濃川の舟運で生計を立てていた人々が多かった為、また煤煙が田畑に悪影響を及ぼすとして建設に反対したのだそうだ。
 確かに、豊野で線路は信越本線と飯山線に分岐するが、地図上で見る限り、飯山線から信越本線が分かれて出て来たという印象を受ける。これも、元々の計画の名残に違いない。
 飯山線の列車に乗ってまず感動するのは、シートが南側の窓に向いて設置されている事。これは、越後田沢以遠ではずっと信濃川の左岸を通る為、信濃川の景観をじっくりと眺められるようにとの配慮である。今日は平日であるし、世間はまだ春休みにも入っていないので列車は空いており、僕は南側の窓側の席を陣取ったが、この列車は十日町行きであるから、全区間線路は信濃川の右岸を走る。事前に調べていたつもりが、肝心な事を見落としており、もし混雑した車内でこんな事をやらかしてしまえば、地団駄を踏むところであった。
 十日町では、今にも電池が切れそうになっていた携帯電話をショップで充電している間に2件、旅行貯金をした。まだ、道のそこかしこに雪が残ってはいたが、さして寒くはない。僕の受験時代という長い氷河期がいよいよ終わりを迎えたのと同じで、この雪国にも、間もなく春がやってくる。
 十日町から乗った飯山線の車内で、YUKIの「プリズム」を聴いた。列車の中で音楽を聴くのは好ましくないと思っているのだが、この時はどうしても聴きたかったのだ。

「見たことのない場所へと まだ歩いて行けると思ったんだ」
「花咲く丘まで 口笛吹いてこう 喜びを抱いて 見果てぬ空の上」


 信濃川を隔てて連なる山稜は頂に雪化粧し、それが春の日差しを反射して見事な輝きを放っている。川の流れは緩やかにして絶えず、雪解け水で増水した渓流が幾本も流れ込んでいる。
 尊く、嫋やかにして、しかも泰然自若としている。冬には一面の雪景色だった平野も山も、もう1ヶ月もしないうちに青々とした新緑が芽吹く胎動に満ち溢れた空間となるだろう。こんな壮大なる物語が毎年繰り返されているのかと思うと、自然の偉大さに畏怖せざるを得なくなる。
 自らの身の自由なるを歓び、大いなる景観と一体なる時、人は皆、旅人となる。

 ところで、信濃川は信濃……つまり長野県を流れていないというパラドックスのような事実をご存じの方は少ないだろう。これは別に難しい理由など無く、信濃川という呼称が新潟県に入って以降の名前で、それより上流、つまり長野県では千曲川と呼ばれているのだ。つまり、長野県を流れているのはあくまでも千曲川であり、名前としては信濃川ではないのである。
 日本中の駅で最も深い積雪である8m95を記録した事のある森宮野原を過ぎて長野県に入り、戸狩野沢温泉では途中下車して駅前を散策し、長野に13時48分に到着した。
 中央本線経由で大阪へ、さらに近鉄に乗り換えて実家へと着いたのは、夜も更け日付も3月20日に変わった0時8分であった。
 この旅を皮切りに、僕は未成年JR完乗への道程を邁進する事になる。寝過ごしや野宿しなければならなかった事などを中心に、今後の行程で改善しなければならない点が多々見付かったが、今回の旅は船で言えば公試航海に当たるから、これで良いのかも知れない。公試で弱点を暴かれ、改善した船は、後々、乗客から好評を得られる事に繋がる。
 何はともあれ、東北と関東を中心に未乗線区を1000km以上、乗りに乗った5日間の旅路は、ここに終わりを迎えた。



[PR]
当たる占い・女性の悩み相談:電話占いならココ!悩むj前に電話で相談